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前回にも相談頂いて続きのようなものですが。

回答数回答 1
有り難し有り難し 8

諦めてはいますが、叶わない欲望が消えずに困っています、欲望の図式はある程度理解出来たかと思いますが、欲望の性質、内容がまだ自分のなかではわかりません。

まわりの友達とかとつい比べてしまう気持ちも辛く、同窓会や長らく会ってない友達とも会いたいとは思えず、みんなを羨む気持ちが消えなく辛いです。

人は人、自分の持ってる幸せに満足しないといけないのですが、なかなか出来なく困ってます。

どうすればどうにもならない欲望をなくすことが出来るでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

無い無い思考より 授かれた、頂けた、恵まれた思考を。

前回に引き続き…
まずは、付き合うママ友を変えてみてはいかがでしょうか。
あなたの周りのそれを持っている方々と接しているから余計に比較の心が生じているのでは?
その前に…質問者様は、ひょっとすると、普段からこれも無い、あれもナイ、と欲しがることから始まる思考ではないでしょうか。
これは学校業界でいうところの減点法式といいます。100点から削っていくという、思考。
100点という完璧な状態でないと99点でも赦せなくなる危険思考、完璧主義のメカニズムです。
この思考、観点は現代において、これでは幸せにはなれない、よろしくない、ということが反省され、
0点からの加算、加点法式の思考こそが幸せになるためには大切であると重宝されています。
有り難いことに、わたしにはこれがある、
これができた、
これを授かることができた、
これも頂戴した、これにも恵まれている、という視点、ああ、ありがたい…。(^<^)
この加点式の幸せ思考に今日から変えてみましょう。これを私と約束をしてみてください。それによってあなたは変わるはずです。今日から始めましょう。(これをご覧になられた方も私と約束をしてください)
無いものねだりをやめる!
有るもの感謝をする。
無いならばそれが今の真実。あなたがお持ちでない第二子という、現在存在していない子供に架空の愛
着を持ち続けている間に、貴女から愛されるべき第一子は寂しい思いをしておられるかもしれませんよ?
目を覚ましていただくために一曲歌いますが。
♪えりもの~ はるは~ なにもない~ 春です~♪
これは、本当に何もない、とうけとるべきではないのです。
♪私には~ これがない~ あれもない~♪
あなたはなにもない~、というけれど これほどまでに 素晴らしい ある❝なにか❞がいつもそこにある事にあなたはきづかない、気づいて頂けない なんて私は悲しいです とお子さんが歌っているように思いませんか。
どうか、0点から始めてみましょう。
比較をやめてみましょう。
今の真実をしかと受け止めて 生きていきましょう。
それでもどうしても欲しい場合は、出産、育児に耐えうるご自身の体を健康になされ、ご主人、家族との相談をすることです。(-_- )失言苦言、失礼いたしました。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます、今まで自分のなかで
欲しいものは全て持てた感じがあったのです。

初めて持つ感情だったのかもしれません。

無い物ねだりの欲望を捨て以前のような友達付き合いを目指します。

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