回向と悪縁切りについて回答受付中
私は、現在回答受付中の相談「繰り返し足を引っ張られる事が起きる」で、佐藤良文様へのお礼欄で詳しくかきましたが、「先祖の因縁が我が家は強く先祖が苦しめている。地縛霊の力もあり、苦しみを繰り返す。先祖の因縁を断ち切れ、私はネガティブな批評ばかりだから、同じ苦しみを何度でも繰り返す、長く作られた苦しむ先祖の因縁で解決はすぐにはできない。己と同じ苦しみを先祖もしていたことを知り供養し、利他の精神で徳を積め、感謝感謝」とか、「先祖の不徳心癖罪が私に一身にのしかかり苦しめている。先祖になったつもりで、成り代わり一生お詫びし続け、自らの心癖もお詫びし悔い改め徳を積め、明るい話だけしろ。被害者づらするな。感謝だ、兄妹で祖母の話しを分かち合う必要は後ろ向きだから連絡は要らない。前向き楽しい事と明るさのみ思え、同じ苦しみを繰り返すよ」等と周囲から言われ、一方佐藤様から回向について説明する必要があるとお返事を頂きました。佐藤様、もしお読みになられていましたら、回向と悪縁切のお話と、因縁を整え、地獄の螺旋階段を落ちる人生を有意な人生の積み重ねに変えて努力ができますよう、改めてご助言頂けますと助かります。
現状は生活と心身が日増しに壊れ、冷静な判断ができないくらいに、得体の知れない事の繰り返しに疲れました。介護世間と両親の精神状態に疲れ、祖母を亡くした悲しみ後悔悲嘆、それを誰とも分かち合うこともなく、息つく暇も無く、理解もなく家族親族等に更に強烈に首を絞められ就職の機会も逃し、心身の健康は危機で、体力も自信も無くなり絶望と偏見と我儘にさらされ孤立で疲れました。先日、近所で父と会いましたが「元気そうでよかった」と全く当事者意識が無く、さっさと去ってゆき、不気味で恐怖を改めて感じました。時間かけて築いた人間関係は壊れ、次は、大切なこの街の方々とのつながりも強制退去でまた消える。両親親戚第三者きっかけで家や学校や故郷を無くすのは五回目です。過去には因縁不徳を清め徳を積む努めや「前向き・感謝の連呼」も散々しましたが、苦痛が増しただけでした。貴重な時間や、自分は自分としての生き様、金銭、健康を、この二年ほど無駄に壊した日々もありません。自分の力も努力も全く足りないからなのですが、また得体のしれない力で落とされると怯え、支援にも繋がれず、力が入りません。以上ご相談宜しくお願い申し上げます。
お坊さんからの回答 1件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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浄土宗僧侶として答えます。
※文字制限のため前置きなし。
◎まず「因縁」とは、すべての出来事を成り立たせている関係のしくみを指します。そこに善悪の判断はなく、「何がどう関わってこうなっているのか」を観るための言葉です。
◎次に「回向(えこう)」について。
この捉え方は大乗仏教の利他という特質(自業自得ではなく、言わば自業他得)です。回向の本来の意味は「自分の善い行いを、他者の幸せのために振り向ける」ことです。例えば阿弥陀仏は、自らの修行の功徳をすべての衆生の極楽往生に回し向けました。
◎これらがなぜ、「悪縁切り」という話に繋がるのか?
まず、「因縁」を「悪縁」と混同してしまうと、縁に悪という価値観を付けることで、原因を切り離すことばかりに意識が向き、苦しみの構造を見直す機会を失ってしまいます。断つより「観る」ことが、因縁の役割です。
次に「回向」の誤用があると、あなたが聞かされたような無茶な話になります。自業他得という文脈に悪行を載せると、「先祖の悪行が〜以下略」が完成です。
私達が住んでいる娑婆世界は、基本的に自業自得の世界です。であれば「先祖が悪行をしたならば、本人がその結果を受け取る」はず。百歩譲っても「自分が前世で悪行を行った」までです。
だのに「先祖の悪行が子孫を苦しめてる」は、仏教の教えからは二重に間違っているのです。
ではどうすれば…?
それぞれの言葉の意味(や限定)を含めた理解をし、行動することです。
私たちがご供養を行うとき、それは坊さんのパワーが不思議な力を発揮しているのではなく、仏さまの慈悲を通じてご先祖に回向されているのです。ですから、たとえ先祖がどんな過ちを犯していたとしても、あなたが阿弥陀さまに願いを向けるかぎり、回向は正しい方向に働きます。
南無阿弥陀仏と口に称えることは、「阿弥陀様、あなたのお力でご先祖様をどうか導いてください」と願うことの表れ。私達に、それ以上できることがあるでしょうか?
② 行動提案――支援・供養・休息の三つの柱
もう文字制限が近いので、この中で「供養」のみ書きます。
先ほどのお念仏に加えて、仏前に手を合わせ、祖母やご先祖に「私は今日も生きています」と事実を報告する。それで十分です。「得体の知れない力」が頭をよぎったら、「仏さま、私には対応しきれないのでお願いします。私は私のできることをやります」と分担しましょう。
質問者からのお礼
佐藤様、深夜に大変心温まる心に深く届く仏様の世界をお伝え下さり厚く御礼申し上げます。因縁と回向の話しがこんなにも厳しくも温かい、そして深い真理を持っており、今から日常の実践で信仰してゆけることも理解できたつもりです。悩み苦しみ虚しさは生きる上でついてくるものでしょうが、因縁を「観て」因縁を整えながら、ご先祖様にも回向の気持で祈り、自分には対処しきれない事があるときは、仏様に救いを祈りながらも、自分のできることを精一杯してゆこうと感じました。亡くなった祖母は、よく自分の力の及ばないこと、例えば寿命とかは、「神さん任せ」と言い手を合わせながら、一所懸命リハビリしていたことを思い出しました。また、自分の介護を含め、回向になる在り方を目指して例えば両親や周囲に行う気持ちがあったかどうかを顧み、反省もしました。自分のために生きることは大事ですが、大乗利他の気持ちもこれから取り入れてゆきたいと思います。因縁を悪と混同したり、先祖の苦しみ悪行をことさら持ち出したり、回向を混ぜたりして混同するのではなく、それぞれの意味を理解し、日常を喜びあるものにする積み重ねをしてゆきたいと感じました。なお、佐藤様が書ききれなかった支援と休息についても是非伺いたいので、今度、zoomで個別面談をさせていただけますとありがたいです。申し込みをさせていただきますので、お時間ございましたら、どうか宜しくお願い申し上げます。スーっと胸が救われ、生きる意欲が湧いてくるお話、本当にありがとうございました。ちなみに祖母の実家、私の通っていた幼稚園は浄土真宗です。法然さまと親鸞さまの違いはよく分かりませんが、懐かしさを覚えました。遠い昔、幼稚園の授業が始まる前に「ののさま拝みましょう」と歌って一日が始まったのを思い出しました。今日も生きておりますとご先祖様に仏様に感謝しご先祖様が癒されるよう回向しながら祈り過ごしてまいります。