人を恨む気持ちをやめたい回答受付中
先日こちらで相談させていただきました。お言葉をいただき、なんとか踏ん張って生きていこうと思ったのですが、うまく気持ちがついてきません。
どうしても人を恨んでしまうのです。
親、兄弟、前夫、前会社の人たち。
恨む気持ちが消えません。
自分にも悪いところがあったのかもと、頭ではわかっていて、人を恨んでてはこの先いいことなんてない、こんな自分は最低だとわかってます。
でもどうしても思い出してしまい、辛くなり、自分で苦しみを与えてしまいます。
病気で苦しんでおられる方に申し訳ないのですが、もう私の人生なんていいかと思っています。
生きていても意味がありません。
こんなにも人を恨んで生きていく人間なんて最低です。
人を恨む気持ちのやめ方、なく仕方をご教授ください。
もうこの自分では無理です。
お坊さんからの回答 1件
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止めるよりも、ご供養しましょう。
こんばんは。質問を拝読して、「浄土宗向きだな」と思います。もちろん考え方として、の話です。
私達は「南無阿弥陀仏」をお称えします。「念仏をお称えすると、阿弥陀仏が救ってくださる」というのはお聞きになったことがあるかと思いますが、これを詳しく話しますと、今のあなたにピッタリだと感じるのです。
お称えするとき、どんな気持ちでいるのか。それは「凡夫の自覚」つまり、「自分には煩悩があり、それを断じることができない。それから逃れることができない」と深く信じることです、まさに「もうこの自分では無理です」に気づくこと。
そもそも恨む、というのは自然な心の動きでもあります。何らか「辛い・思うようにいかない」時に、「あの人が…」という理屈を作り出すのは、自分を守ることですね。自分で自分を見限らないための、生きる為の反応と言ってよいでしょう。
しかし、良いものでもない。あなたがお気づきの通りです。
ですから、「恨みの心が生じたら、それを流す回路を作っておく」…私はこれを供養と呼びたい。供養というのは元来「もう自分の手が届かないことについて、それでも何とか納めていく」ということです。故人にはもう手出しできないけれど、それでも「何もできない」ではない。同じように「良いものでもないが、生じてしまう」恨みの心を、どう扱うか。その筋道を決めておきましょうということです。
具体的には、何か恨みの心が生じ、それを感知したら、「ああ、自分は確かに凡夫なんだ。煩悩を断じることができないんだ」と名づけ。そして口に「南無阿弥陀仏」と称えます。阿弥陀仏という仏さまは、そういう「煩悩を断じることができない人でも、名前を呼んでくれれば助けますよ。任せてください」と宣言している仏さまです。
一度称えて、それでも恨みが残っているなら、「ああ、まだあるな」と、また南無阿弥陀仏。消そうと力む必要はありません。出てきたら称える。また出てきたら称える。その繰り返しです。不思議と思うでしょうけれど、この「口に南無阿弥陀仏と称える」という行動が、「それでも私を救ってくれる」という言葉に実感を与えてくれます(私の実体験として、そうです)。気が済むまで南無阿弥陀仏。どうぞこの回路を、使ってみてください。


