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自信がありません。

回答数回答 1
有り難し有り難し 22

私は今、片想い中です。
相手はクラスの仲のいい男の子です。
最初は静かそうに見える人だったのですが、私に積極的に話しかけてくれて、楽しくて気がついたら好きになっていました。

しかし、私はかわいくておしとやかな女の子とは違い、活発で元気な方なので恋愛に自信を持っていません。

どうしても周りの女子と自分を比べてしまい
自分なんか好きになってくれるのかな、?
と、マイナス思考ばかり考えてしまいます。
それに、彼のことを好きだと気づいた日から彼に上手く話しかけることができません。

どうしたら彼に近づけますか?
分かりづらい内容ですみません。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

目的を変えてみましょう

そこまでわたしの事を想ってくれてありがとうございます。(オメーじゃねっつの)
こんにちは、埼玉から失礼します。
結論から申し上げますと、彼とウマくいっても、おそらく別れる確率は50%以上ですから、
ぶっちゃけ高校生からの付き合いで結婚までゴールインする人は少ないからです。
ですから、こう考えましょう。
「別に結婚するわけでもないんだし♡」
席替え感覚、ライト感覚で付き合えばいいのです。
フラれて上出来、失恋上等。フラれたらもっとイイ男にフラれましょう。
そこでダメでも、次のもっとイイ男に猛烈アタックです。
フラれるかもしれません。付き合ってくれるかもしれません。
そうするとだんだん男性に免疫ができてきます。
駅前のティッシュ配りのバイトはそんな事でくじけちゃいられません。
どんどん、強気で向かっていく事です。
普通に誰とでも話せるようになります。
フラれたとしても「何でー?アタシのどこがダメなのぉ?じゃ、3日でいいから付き合いなさいよ」くらい強気なオカンソウルが身についてきます。そこが狙いです。
10代20代の恋愛の失恋の多くは単なるコミュニケーション不足だったりするものです。
よって、communication能力を高めるためにバンバン失恋して免疫を付けていくのです。
この目的はもちろん失恋ではありません。彼氏と付き合うことでもありません。
イチ女子として、あらゆるタイプの男性と普通に接することができる大島優子的スキルを身に着けるのです。
今まで男性と上手に話さなかった自分を捨て去るために、ガツガツ行くのです。
「当たって砕けろ撃沈あるのみ」です。握手会のノリで向こうがファンだと思って行く勢いを持ってください。そうすると、付き合うとか付き合わないではなく、誰とでも話せるようになっている自分に神ウットリです。
恋愛のゴールは恋愛ではありません。恋愛ドラマはオイシイドコロ取りだけで虚構です。
真実は結婚後に待ち受けています。
その頃には、あの時の失恋の痛みに比べれば大したことないワくらいに笑い飛ばしてみましょう。
失恋の痛手とは、失恋した後に、自分で自分を責める行為です。
そんなことするヒマがあったら次の男に狙いをつけることです。落ちていったリンゴより、もうちょっと隣のひかるリンゴです。うまく行ったらリンゴジュース1缶でも送ってください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

そんなに思い込まないで軽い気持ちでいいということですね。
確かに私は今の恋愛しか見えていませんでした。
もっと当たって砕けます(^-^)!!

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