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人生に迷う

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有り難し有り難し 14

いい加減に仕事をやめようかと思っているけども踏ん切りがつかない・・・
やりたいことはあるけどもどうもうまくいく気がしないから困っています。

どんな人生ならば自分は満足できるんでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

満足できる人生を模索するかぎりそれは見つかりません。

今がどんな状態、状況であろうと、
「今」の自分に満足がいかないかぎり「満足な人生」は見つからないと思います。

幸せは自分の外にはありません。

外の状況をどう受けとめるかの自分の心の中にこそあるのだと思うのです。

例えばの話しです。

病気で苦しいとします。
そんな中、病気と戦って頑張ってくれている自分の体を考えてみましょう。
細胞は病原菌やウイルスなどと戦って多少死滅しながらも頑張ってくれていると思います。
そのような自分の体に感謝して「ありがとう」と言えるとき、
自分の体に対して、体の頑張りに対して、たとえ小さくとも満足の心が生じると思うのです。
そして病気が治ったら、やはり満足が生じると思うのです。

今、生きていて、寝る場所があって、食べるものがあって…小さな満足を探してみて下さい。
不満や不安を探す時間を「小さな満足」「小さな幸せ」を探す時間に変えてみて下さい。

あいさんの中で何かが変わると思います。

季節は真冬です。
どうかお風邪など召しませんようご自愛ください。

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個別相談可能
仏道に入門して40年が経ちました。 死ぬまで修行を続けるのがお坊さんだと思っております。 法昌という法名で、和歌山県の高野山の西禅院が所属寺院ですが、 普段は東京都町田市のマンションで手作りの密壇でひたすら修行を続けている  はぐれ行者です。 伝法灌頂も中院流の一流伝授も授了させていただいております。 娘を持つ母であり、一家の主婦でもあり、親の介護もあったりします。 エッセイや文章、そして漫画家として漫画も描いております。 イーハトーブクリニック萩原医師の指導をいただきヒプノセラピスト(催眠療法士)でもあります。 基本的に隣のおばちゃん的な、でも変わった尼僧です。
ご相談可能な時間はその日ごとに違うので、いくつかご都合を書いてくださいね。 人生で悩んだ時に、最善の答えを与えてくださるご神仏と、あなたは心の奥で必ず繋がっています。ご自身の心の中からご神仏のお答えが受けられるようにアドバイスをさせて頂きます。 ◆著書:「神さま仏さまがこっそり教えてくれたこと」「迷いをすっきり消す方法」「幸せを呼ぶ仏像巡り」

何としてか世界は輝かしい

近隣のお寺様で、次の代に住職を譲られたら急に老け込んでしまった方がおられます。
24時間は平等です。
そこで「何をするか」ではなく、何をするにしてもそこで「いかにする」か、これが人生のカギであると思うのです。
「どこ」を歩くにしても誰と歩くかで、遠き道のりも楽しくなります。
誰と歩んでゆくにしても、その時間をいかに過ごすか。
同じ仕事をするにしても、同じご飯を頂くにしても、同じお酒を飲むにしても、ぞんざいにすればそれはつまらなくしてしまいます。自分でつまらないものに「して」しまうのです。
それはおそらく自分の都合上の求めや願いが強いと、どんな美食もつまらないものになってしまうのではないかと思います。
親友との酒は安酒でも値段が付けられない美味さがあります。
ツマラナイものにしない為には、人とのかかわりや前向きで明るい気持ち、命が生き生きと喜ぶような在り方が、本心が喜べること大事であるともいます。
だれがこの命を喜ばしいものをしないままに死んでいくために生まれてきたと言えるのでしょうか。
自分の命もだれかの命をも、楽しませる、喜んでいただく気持ちこそが偉大な宗教家たちの目覚めです。
禅ではこれを「喜心」「老心」「大心」といいます。
有り難いことは、どこかに転がっているものではなく、見出す、探す、感じ取る事でどこにでも感じる事ができます。震災で家族を亡くされた方が「海は時に奪うが海によって生かされている」との目覚めを持たれた時、再び漁に向かったという方がおられるそうです。海という家族を奪ったものの中でさえも、生きてゆくための活路を見出されたのでしょう。
今朝がた私はこの大自然の不思議な働きに目を向けていました。畑が凍り付いている事にすら神秘を感じました。
何としてか空は青い、何故かシャボン玉は丸くなる、何故か葉っぱは色を変え、落ちて、新しい命をはぐくむ糧となる。何としてか世界の美しき事でありましょう。
この美しき世界で今日、このひと時をいかに生きるべきでありましょうか。
いたづらに過ごしてはいけないと、常々、自身に言い聞かせております。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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