なぜ人は自分にないものをほしがるのか?
上記の質問どおりです。
なぜ、人は
他が持っているものや、
自分にはないものを
ほしがるのでしょうか?
本当は
全て
自分が持っているからでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
貪・瞋・痴(とんじんち)
人間に百八煩悩がありますが、その親分のような3つの煩悩を
貪(とん)瞋(じん)痴(ち)
といいます。
貪はむさぼり、もっともっと。という気持ち。
瞋は腹立て、怒りの気持ち。
痴は正しい知恵がやまいだれに覆われ病気の状態。物事の道理に暗い私たち。
この3つが全ての煩悩の基本になります。
そんな三つの煩悩の親玉の1人目に
貪(むさぼり、もっともっと)
がいるのです。
足ることを知れば楽になるのに、幸せになれるのに、
もっともっと、とむさぼる性質を私たちは持って生まれてきているのです。
2億もあれば充分や!
いざ2億手に入れると、5億にしたい。
この2億を増やしたい。
となるのです。
2億で充分。は2億を持ってない私だから言えるのです。
これら3人の煩悩の親玉は強敵です。
一筋縄ではいきません。
私もこの親玉たちにふりまわされ悩まされる者の1人です。
でも、ふりまわされている自覚を持ってふりまわされてしまうのと、ふりまわされている自覚もなく、ふりまわされているのは大きな違いがあると思います。
仏教はどこまでも、まず、自分に目を向ける宗教です。
外向いてついた目の玉をぐるっと回して内側を見つめる宗教です。
人の者をほしがる、もっているのにもっともっとほしがる。
そんな自分の偽りなき姿をそのままに見つめられてはいかがでしょうか?
そんな自分に素直に目をやったとき、仏様に手を合わせる、お任せしてゆける。そんな信仰の暖かい世界が開けてきます。
底抜けな欲があるから
217さん、こんにちは。
人の物を欲しがるのは、本当は自分が持っているというよりは「後悔したくない」という欲が原因だと思います。
人が注文した物が美味しく見える➡一口もらって自分が選択した物の方が美味しかったら得した気分になる。
まずかったら損した気分になる。
自分が選んだ選択肢が最良であるか判断したいから、「自分がこれを選んでたらどうなったか」というシュミレーションをするのだと思います。
自分の今までの人生はやり直せません。
やり直せないけど、人を使って想像することは出来ます。
想像したって意味がないのに。
私の人生は私しか生きれません。
私の苦しみや楽しみを人に100%伝えることは出来ません。
それでも自分の選択への採点をしたくなる欲。
生きる限り、全てが選択です。
当たり前の行動から、特別な事項まで全て自分が選んでいる。
周りからのアドバイスや強要があっても、どうするかは私の選択です。
変えられないことを認められない。
変えられないことを知っているから、自分の身銭ではなく人の選択肢を拝借して次に活かしたい…そんな欲なのではないかなと思います。