何のために人間は存在しているのですか
初めて質問します。
カテゴリーをどこに当てはめたらいいか迷ったので一応"その他"にしました。
内容はタイトルの通りです。
人間がなぜ、何のために存在するのか、仏教やお坊さんの視点ではどう捉えられているのか知りたいです。
生まれてから今まで色んな人たちと出会い、関わってきましたが、その中で人間の欲深い所、醜い所を嫌と言うほど見てきました。
男も女も年齢も関係ありません、本当に人は救いがないなと感じます。
ニュースでも戦争とか暴力とか犯罪とか、見てるだけで心が痛くなるような残虐な行為を平然とやってる人達にも恐怖を覚えます。
そして私も、醜い所を沢山持っている自覚があるのでそんな自分も恐ろしくて仕方ありません。
もっと綺麗な人(外見ではなく精神的な意味で)でいたかったし、優しい人でいたかったし、強い人でいたかったです。
でも、私もたくさん人を傷つけました。
私も良い人間にはなれませんでした。
まともな人間なんて自分含めて誰ひとりとしていないんだ、人間という生き物そのものが穢れた存在なんだなと思うようになりました。
だからこそ疑問なんです。
どうして人間はこんなにも醜い感情を抱くように作られているのですか。
人間が存在する事で得をする存在がいるのでしょうか。
こんなに醜い存在なら人間なんて別にいなくてもいいのではと思ってしまいます…。
もし人間が存在するちゃんとした理由が仏教の中にあるのなら、それを聞いて自分の中で納得したいです。
拙い文章で分かりにくかったら申し訳ありません。
よろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
ひとかけらの純情。
はじめまして。浩文(こうぶん)と申します。
仏教では、人間が存在する理由をあまり必要としていない気がします。
そうではなく、他ならぬsuiさんご自身が存在する理由、生きる理由を見つけるのに、仏教がお役に立てる力を持っているかもしれません。
こんな醜い人間にきちんと存在する理由があったとして、それを理由にして生きますか?
suiさんご自身が生きていくこと、抱えていること、苦しんでいることに対して、果たして人間の存在する理由が、助けになるのかどうか。
あえていえば
人間だけでなく、地球にしても、宇宙にしても。
どこにもこの自分が生きていく理由は無いと言えると思います。
無くてもよい。
興味があって調べるぶんにはいいと思いますが
あくまで自分が生きるということとは、まったく別物なのだと。
そんな気がします。
私見ではありますが、人間ではなくsuiさんご自身が生きていく糧を見つけるのに、仏教は助ける力があると思います。
たいせつにできるのは
全人間ではなく、目の前のひとりの人間なのです。
理由は初めからあるものではなく
その都度、育むものだと。
こういった問答も、生きる理由のひとかけらにでもなればいいかななんて思うんです。
たいしてお答え出来ていないかもしれませんが、どうかご参考いただければ幸いです。
南無釈迦牟尼仏 合掌
人間のどこが醜いですか?
suiさん、生きる意味を考える。日々思考停止しないその気持ち大切です。ご自愛ください。
人は行きたいように生きる。他の動物も生きたいように生きる。毒もあるし、病原菌やウィルスの感染経路になる生き物もいます。逆に綺麗な生き物はいますか?
人間は地球を支配しているわけでも地球の命運を握っているわけでもありません。人間の作り上げた規則の中で生きようと必死にもがいています。
多様性といってもおせち料理の重箱と同じです。一見彩り豊かな多様性ですが、決まった食材しか入れない。唐揚げや豚カツなど美味しくも入らない。カレーライスは持っての他。結局誰かが気に入ったものしか入れない。入れないものは穢れているか?汚いか?愚かか?というその程度の価値観でしかありません。そんな人間は生きる資格はないのですか?それはあなたが思考停止しないで下さい。この問いに只管向かい合って下さい。あなたの人生はあなたのものです。これからも彩りのある人たちと出合い対話して下さい。回答はそれからでも遅くないと思います。
六道輪廻
Suiさま
「人間は、何のために存在するのか」、「それを仏教やお坊さんの視点ではどう捉えられているのか」ということですが、
まず、人間は、仏教では六つに分ける境涯の一つの存在となります。
六道は、天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄となります。
これは、実際にそのような境涯に生まれるということと、その存在の心のありようを表すものということの、二つの面から捉えることのできるものとなります。
人の存在であっても、天、修羅、畜生、餓鬼、地獄の存在が受ける苦しみを受けることがあるということです。
では、なぜ、そのような存在として生まれるのかは、業(カルマ)によるものからとなります。
過去世から引き続いてきてある色々な業の結果として、その果報を受けながらにして存在することになります。また、現在進行系でも、善い行為、悪い行為、どちらでもない行為を無数に行いながら業を作り出していっています。その結果も、今世で受けることもあれば、来世、来来世で受けることもあるわけです。善・悪・中性と、業は混ざりつつ異熟しながらにやがてその結果へと向かうものとなります。
ですから、前世での、「あの業」、「この業」の結果が、今世の「この結果」、「あの結果」とはっきりと分かるものでもありません。
もちろん、全知者である仏陀、如来であれば、前世のあの功徳が、今世の今のこの果報であると分かるかも知れませんが、私たち凡夫ではそれは計り知れないものとなります。
とにかく、仏教では、人、六道の存在は、業を生むものであり、その業による結果を受けるものと言えるかと存じます。
では、何のために人は存在するのかは、仏教では、過去世の善い報いの結果として、三善趣の一つに生まれることのできたものとして、特に、人は、この迷い苦しみの輪廻から逃れることのできる業(善業)を積むことができる大変に有り難い境涯であり、つまり、この迷い苦しみの輪廻を脱して、悟り、涅槃へと赴くことができる存在(有暇具足がある存在)であるとして、その悟り、涅槃へと向かうための教え、方法をお説きになられたのが、釈尊であるのであります。
人は、この迷苦の世界を超えていくためのチャンスある存在と言えるのであります。
人間、当然に悪いこともしてしまうものですが、できる限り善いことにも取り組んで、善き結果へと向かいたいものでございます。
合掌
質問者からのお礼
大鐵様
お忙しい中回答頂きありがとうございました。
捻くれた考え方をしているなと自分でも思います。
重箱の例え、なるほどなと思いました。
私は結局自分が受け入れられない人達を非難して嘆いてるだけだったなと。
とはいえ、モヤモヤして腑に落ちないような気持ちもあるのが私の感じた正直な本音です。
まだ精神的に未熟な所が自分にあるんだと感じました。
ちゃんと飲み込めるように何度も頂いた回答を読み返そうと思います。
本当にありがとうございました。
吉井浩文様
お忙しい中回答頂きありがとうございました。
"こんな醜い人間にきちんと存在する理由があったとして、それを理由にして生きますか?"
"suiさんご自身が生きていくこと、抱えていること、苦しんでいることに対して、果たして人間の存在する理由が、助けになるのかどうか"
頂いたこちらのお言葉に関してなのですが、私は幼少期から普通に生きてたら大半の人は遭遇しないような怖い経験をたくさんしてきました。
この世の見え方は人それぞれかもしれませんが、たくさん恐ろしい体験をしてきた私にはここが地獄にしか見えませんでした。
いつまでもこんな場所に居られないと思いました。
だから知りたかったんです。
わざわざこんな恐ろしい世界がある事、恐ろしい人がたくさんいる事、そこに自分がいる事、その理由があるのなら知りたかったんです。
自分の中で納得できる理由があれば、少しは地獄でも妥協して生きられるだろうかと思ったんです。
ですが、"理由は初めからあるものではなく
その都度、育むものだと"
というお言葉を聞いて、なんだか自分が間違ってたような気がしてきました。
本当は理由が欲しかったけど…
だけどその理由は自分で作るものなのかも、それが生きる事なのかもと思いました。
とはいえやっぱりこの世は怖いです…人間も…
すぐには変われないかもしれません。
ですが頂いたお言葉やお礼を書いているこの時間に、考えたり泣いたり、色々と自分の中で気づく事がありました。
本当にありがとうございました。
Eishun Kawaguchi様
お忙しい中回答頂きありがとうございました。
聞き慣れない言葉は調べながら読ませて頂きました。
私は頭があまり良くないので間違った解釈をしていたら申し訳ないです。
業について、現在生きてる自分の行いが一番大切なのは重々承知していますが、自分の力ではどうしても避けようのなかった環境(幼少期の家庭環境など)はこれまでの輪廻転生の繰り返しの中で積み重ねてきた負債の精算だったりするのでしょうか…。
もしそうだったら私として生まれる前までの過去の私はどれだけたくさんの酷い行いを色んな人生の中で積んできたんでしょうね…。
情けないし悲しくなります。
私はもう、できる事なら人として生きるのは自分の為にもこれで最後にしたいと思っています。
自分を客観的に見たらまだ全然駄目だな…と落ち込むのですが、これからは自分の行った行動に対して後悔するような事はできる限り増やさないように努力したいです。
ありがとうございました。