良い人なのに
いつもありがとうございます。
質問させてください。
困った人を助けたり、人にために生きたり、役に立つことをたくさんしたり、そんな凄く良い人なのに不慮の事故などで早く亡くなってしまうのはなぜですか?
徳を積んだから、凄い境地に達したから、今世を終えることが出来たってことですか?
それは人間の世界・道は辛いものだからということですか?
また、たくさん辛い思いをしたり、耐える人生を経験したりしても、その人が幸せになれないのはなぜですか?
※ その人の人生を幸せじゃないなどを言うつもりではありません。
幸せ不幸せの定義は人それぞれとかの話ではなく、頑張ったり、人のためになるような生き方になっていても、辛いことがその人に降りかかってしまうのはなんでなのかな?と思ってしまいました。
生きている意味などは人がつけたものなのかもしれないし、人も自然も原子の組み合わせで成り立ってるだけだから起きることに特に意味はないのかもしれませんし、当たり前のことなのかもしれませんが、ふと疑問に思ってしまいました。
どうぞ宜しくお願い致します。
お坊さんからの回答 1件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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幸せは心の問題
不幸(悩み苦しみ)を感じやすい性格かどうかによって、幸せかどうかが決まります。
また、「人間」という概念も実体のない幻。つまり、仏教的には、人間だから80歳まで生きて当然、という前提が崩れるのです。
一人ひとり、一匹一匹が個別の生き物。
早死にしたから不幸とは言えない。
煩悩が強ければ悩み苦しみストレスの多い生活、煩悩が弱ければ幸せ多き生活となる。
仏教的な「善い人」は、煩悩が弱い人や、煩悩の制御が上手い人。
不慮の事故や病で亡くなるかどうかは、自然現象みたいなものなので、良い人だから避けられるとは限らないのです。
とにかく重要なのは、煩悩が強いと不幸を感じやすい性格になるという因果関係です。
たとえば他人のためにボランティアに励んでいても、内心で怒りの煩悩が多いなら、その人はイライラムカムカの毎日で辛いでしょう。
追記
お釈迦様が亡くなったとき、悟っていない(煩悩が多い)弟子や信者は悲しみ泣きましたが、悟っている(煩悩が少ない)弟子は落ち着いていました。
仏教は、煩悩を減らしたり制御したりして、不幸を減らすテクニックを説いています。
不慮の事故はコントロールできませんが、煩悩はコントロール可能なので、煩悩によって幸せが左右されるのは素晴らしいことです。
追記
大丈夫です。失礼ではないですよ。
質問者からのお礼
ご回答いただき、ありがとうございます。
上手く伝えられずに申し訳ありません。
私が質問したのは、他人のためになるようなことをたくさんしていて、尚且つ煩悩も弱い良い人が本人が望まない形で早くに亡くなってしまうことがあるのはなぜなのかな?という疑問です。
煩悩があるから、早くに亡くなってしまうことを望まないということになり、煩悩が少なければ早くに亡くなることに対しても、さして何も思わないということでしょうか?
良い人も悪い人も関係なく、また人はどんな生き方や行動をしていても関係なく、本人の望まない事故のようなことは起こるし起こらないかもしれない。幸せ不幸せという観点の話ではなく、今世だけを見れば、人に凄く迷惑をかけることをするのも、人のためになるような生き方をするのも、自分が迎える死については本人が望まない形だろうと突然訪れることがあり避けようがない。
避けようがないから、自分の心持ちを変えるしかなく、それは煩悩をなくしていくということ。でしょうか?
素晴らしい生き方をするのも、人に危害を与える生き方をするのも、死においては関係なく、死を迎える本人や家族ともに、辛さを減らすには、ただ煩悩を少なくすること無くすことしか方法はないということでしょうか?
早くに自分の子供を不慮の事故で亡くしてしまった人で辛いのは煩悩が強いからですか?
出家在家を問わず、煩悩を無くすことをしていくしかないく、また在家者で世の中を発展させたい社会を良くしたいという思いを抱くことも煩悩になるので望まない方がいいということになるのでしょうか?
当たり前のことを聞いているのかもしれませんが、ふと疑問に思い質問させていただいております。
どうぞ宜しくお願い致します。
失礼でしたでしょうか?