戒名に院号をつけてないと、院号をついてる人に会えない?
院号がついている人同士でないと、向こうで会えないと聞いたのですが、本当ですか?
祖父に会うには、院号をつけないと会えないのでしょうか?
前回祖父に戒名をつける時、院号つけるにはどうすればいいか?と質問したものです。
危篤でもずっとずっと頑張ってくれました。
祖父が7/3に亡くなり、7/4にお通夜、7/5には葬儀と初七日法要を行いました。
家族でよく話し合い故人の意思を尊重し、院号なしでお願いしました。
7/4のお通夜の晩にお寺さんから頂いた戒名には、院号がついていました。
祖父が5月にこれからよろしくお願いしますとお寺にお願いに来てくれた。
それはなかなかできることではない。
祖父は院号はいらないといってたが、終活を称して院号をつけたとお寺さんが話してくれました。
ありがたいことです。
祖父はきっと、空の上から院号いらんて!!といってるでしょうが、おこないが良すぎたんだから仕方ないでしょと私たちは笑って送り出しました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
会うとは
あず様
釋 慧心と申します。
拝見させて頂きました。
この度のお祖父様のこと、ご心中お察し申し上げます。
浄土信仰に基づくお話ですので、回答させて頂きますね。
長いです。
「会う」というのは、浄土で会うということです。
私の寺の檀家さんの方に、よく冗談で「若院さん、わし死んだらあっちから電話しまっさかいな、恐がらんと出てやあ」というような、お話をされる方がいます。
私も「どんなとこか教えてくださいね、法然さんやらご開山(親鸞さん)とも会ったら宜しくお伝えください、私が先やったらLINEにしますわ。通話料高そうやから。LINE知らん?ほなあかんわ。」
などと冗談を返しております。
しかし、実際には電話はかかって来ません。
浄土という場所を私は見たことがありません。
では空想や絵空事でしょうか。
こんな事を言う人があります。
「空事のような浄土が真(まこと)にて、真のようなこの世が空事」
真とは、時の流や、受け取る人、また場所によって変わらないもの。
私が今、この目で目の当たりにしている世界。
事象全ては、当たり前ですが、この私を通してしか確認が出来ません。
事象は常に移り変わっております。
私は何処まで行っても私です。
この私から常に完全に離れることは至難の行です。
悟り、覚り、からは程遠い存在が私です。
それを、煩悩具足の凡夫と言うております。
私は凡夫(ぼんぶ)です。
私が不確かな存在であり、それがどういう有り様なのかを知るには、
確かな存在に照らされることによってのみ初めて分かるはずです。
その確かな存在が仏様です。
仏様の智慧によってそのことを知らしめて頂いております。
臨終を迎えたら、すみやかにこの娑婆を離れ凡夫を照らし導く確かな存在の仲間入りをさせて頂きます。
お釈迦様がお説きになられた、阿弥陀様が仏に成られる際にそのようにお誓い下さりました。
「会う」というのは、あの人もこの人も、仏として同じ確かな存在。同じはたらきに成ってくださってるということです。
もっと厳密に言いますと、一如。分け隔てが無いのです。
片方を実証するには対象になるものの存在がなければ顕かになりません。
見えませんが、それが無ければ私の姿、この娑婆の有り様は顕かにならないのです。
そこに院号は御座いません。
会えますよ
浄土宗としては、それは間違いです。
浄土で会うのに院号の有無は全く関係ありません。
大切なのは極楽浄土を信じて、阿弥陀仏を信じて、南無阿弥陀仏と唱えることなのです。
安心してください。
質問者からのお礼
お寺さんは日蓮宗なので、浄土宗とは考え方が違うのかもしれませんが、浄土宗のお2人にご回答いただき感謝しております。
聖章様
院号は関係ないのですね。
祖父の父も院号が付いていないので、祖父は父に会えないんだ。と話していたのですが、安心しました。
浄土宗の方ですので、日蓮宗とはお考えが違うのかもしれませんが貴重なご回答、家族で読ませていただきます。
䆁様
院号は関係ないとハッキリわかり安心しました。
ありがとうございました。