hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

ご近所の風鈴について

回答数回答 2
有り難し有り難し 36

はじめまして。

暑さの厳しい日が続いておりますね。近頃、私の住む家の近くで風鈴を吊したお宅があるようです。
もちろん夏場に風鈴を吊す、夏の風物詩とも言える行為そのものに文句をつける気は毛頭ございません。

しかしこの吊されている風鈴というのが風鈴・オブ・ザ・風鈴とも思える素晴らしい風鈴でして、
強風の日はチリーンチリリリーンチリーン!!と元気よく、
いま風吹いた?というそよ風にすらチリーン…チリリーン…と健気に反応して見事な音色を辺りに響かせるのです。

風鈴としての役割を果たそうとするその懸命さには目を見張るばかり。
けれども修行の足りない私は、絶え間なく鳴り響く甲高い音に「ああ今日もうるせーな」と思ってしまうのです。

これで風鈴を吊しているお宅が分かっていれば直接出向いて交渉する事も考えるのですが、
場所がちょっとした音も反響するそこそこ閑静な住宅地、いまだどのお宅で鳴っているのか判然としません。

度々外出のついでに風鈴を探してはみるものの、件の風鈴を見つけ出すより先に
付近の窓辺をジロジロ見て回る不審者の噂が出てしまいそうで、もしそんな事になれば近隣の皆様の心痛となること必至です。

風鈴の音を心静かに受け入れるか、気にせずいられたら良いのですが、
いかんせん一度気になると鳴る度に「今日も鳴ってる…」と思えて仕方ありません。

7月に入ってまだ1週間、これからも風鈴は立派に己の役目を果たす事と思います。
この夏、私は風鈴の音色とどう向き合い、過ごして行くべきでしょうか。

何かアドバイスがございましたら、ぜひとも宜しくお願い致します。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

風鈴は立派な騒音です。

 悩む必要はありません。
 考えるべきは、風鈴の場所の確定と、風鈴を外して頂く御願いの仕方でしょう。
 この夏の安眠が掛かっていますから、どうあってもお宅を突き止めて下さい。そして、にこやかに、にこやかに、出来れば「(買ってきても…)お野菜たくさん頂いてしまって…もし宜しければ…」と手土産持って、「実は私は聴覚が云々で、風鈴の高い音が苦手なのです…医者からも、そのこと言われてまして云々で…ホントすみません」とおっしゃって下さい。
 早い方がよいです。夏を快適に過ごしましょう…。

{{count}}
有り難し
おきもち

風鈴がきっかけで道元は悟りを開き、曹洞宗が誕生しました。

風鈴の音まで騒音扱いにしては風情がないというもの。
人んちの物音は「うるせー」と思ってしまうワカランでもないです。(^<^)
外の事を問題にしてヂリンヂリン鳴っている風鈴はあなたの中にあります。
まず🎐風鈴の音がなっている時、自分の心の中でガランガラン鳴っている思いの音の方を鎮めてから冷静にただ風鈴の音という事実に耳を傾けてみましょう。
もし他の人が気になっていないのに、あなただけ騒音になっているとしたら問題は外ではなくウチにあるという事です。それを確かめるためにも実際に自分で風鈴を買ってみませんか?イイ修行ができます。 
「アレは人の家の音」と区別するとで問題になる事があります。
本当は気にしていない時だってあったはずです。
音量的にもっと大きな音が気にならずに、風鈴の音だけが気になるという事は、意識し過ぎかもしれません。
仏道とは五感を開けっぱなし、五感に触れるものをそのままに私見を交えず無問題に生きる道です。
今の日本は何でも◌◌ストレス、∇∇ストレスと、どんなものもストレスにしてしまいますが、その根柢の物の見方こそが問題なのです。ネガティブに悪く捉えてしまう物の見方にこそストレスを発生させる原因があるのです。
私も仏道を通して以前問題であったことが無問題になりました。
道元禅師は師の如浄禅師の風鈴の偈に感動しました。
🎐
渾身口に似て虚空に掛る
東西南北の風を問わず
等しく他がために般若を談ず
滴丁東了適丁東(チリンチリン)
🎐
【丹下ヘタレ訳】
風鈴が玉に触れて音を生ずるように、我々の心身も今、外の出来事を通してチリンチリンと知覚が生じている。
風鈴が風を受けて玉が口に触れて音が生ずるようにように。
その一切を頂きながら自己は虚空(この身も虚空として)に独り浮かび存在している。
東西南北の風を受けても、その風を転じ即、妙音を奏でる。
❝ちりん❞
事実が事実として、その通りにこの身に現ずることが悟りである。
この身には(出会い頭の時点においては)常にそのもののありようが善し悪しにわたる以前のそれとして染まらぬままの、そのとおりに現じられている。それが悟りの境涯である。
チチチンリンリン♪ チリンチリン♪
風鈴に「わたくし」を介入させずに聞いてみてください。
音が聞こえながらも邪魔にならなくなるはずです。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ