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振られてしまった相手に…

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はじめまして。
知人の紹介で知り合った男性(34)と、1年間くらい2人で食事に行ったりデートする関係が続いていました。初めは相手から声をかけてキッカケを作ってくれて、一緒にいるうちに私もその人の人柄に惹かれて、いつの間にか好きになっていました。
私も相手も奥手で、なかなかはっきり言葉に出来ませんでしたが、ある時打ち明けたくなり、私の気持ちが伝わりました。

すると自分が過去に付き合い結婚を考えていた相手に裏切られた過去を打ち明けてくれ、女性に対して警戒心があるという話をしてくれました。
少し考えたいと言われ、その後も何度か会いましたが、最終的なその人からの答えは「自分の年齢的に次に付き合う相手は最後だと思っているから、私には好意はあるけど、気持ちが100%じゃなくて恋愛とは違うかもしれないから付き合えない」ということでした。前の恋人のことも引きずっているのかなと思いました。
ただ、私といると抱きしめたくなったりすることもあるし、可愛いと思うけど、友達の方がいいと思うとも言われました。
実際に手を繋いだり、ハグされたりしたことはありました。
それも私にはあまり理解できない感情でした。

私にとってもずっと恋愛に臆病になっていたけど、久しぶりに信頼できそうな人に出会えて、好きになった人でした。

そのことを伝えてから、連絡を取っていません。頑張って忘れようと思っています。

でもその人と会わなくなってからの方がその人のことを考えてしまいます。
人間としても好きなところや尊敬するところのある人なので、大事にしたいし幸せになってほしいなと思います。

その人も悩んで出した答えなので、受け入れたいし、自分に振り向いてもらうようにアプローチすることは考えていません。

まだ正直その人に気持ちが残っています。
友人に相談すると、ほとんど反対されますが、会うことはいけないことでしょうか?

こんな悩みで申し訳ありません。
よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

超絶アタック

「延命を祈る間も減る命」という言葉があります。
現代恋愛風に言うならば「西野カナ の曲聞く間も 増えるシワ」です。
空想や干渉に溺れてはいけません。リアル恋愛、リア充、ラブ充にモエにモユるべきです。
わたしの勝手なMOSOによると、それはおそらくその男性のSOS信号であり、あなたの愛の深さを試しているのであろうかと思われます。仮にそうでなくてもそうに違いない、とポジティブに考えましょう。
あなたが彼の事を好きなら、外堀からじわじわ埋めて、モーレツアタック、超絶ラブリー攻撃大作戦あるのみです。三日間、三食弁当を作って胃袋を掴んで、彼の母親以上、前カノ以上に、イタレリーのツクセリーのでメロメロにするしかありませんがな。
勿論、彼の夢想物語にもトコトン付き合ってあげて理解を示す女の度量も必要です。
アナタなしじゃいられない依存体質を作り上げる。
男なんざそれで陥落ですわい。
ダメなら、❝ダメだった❞ということがハッキリするから、あなたもそれでけじめがつく。
捨て台詞はイソップ物語のキツネと酸っぱいブドウの話を拝借して
「あの男は草食系男子に違いない」とマントラを唱えて、次のアナタにふさわしい男子、新しい恋をスタートさせましょう。
いまはハッキリしていないことが問題なのでしょう。
可能性はあるかもしれないけど…、メイワクかな、でも、好きかも、好きなのかな…
あなたも女ならば、かけひき抜きでトコトン愛し抜くべきです。
それだけやる価値はあるでしょう。なけりゃ、ホナさいなら。
それもせずに、不完全燃焼では、それこそあなたも恋の一酸化炭素中毒で共倒れです。
撃沈時には僧職系男子がお勧めです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

忘れようと努力すれば 益々想いは募るばかりではないですか

アネモネさん

双方とも誠実な人柄で
中々コメントしづらいのですが

“好きになった人でした”
とおっしゃっていますが

アネモネさんの中でまだ
過去形になっていない
まだ現在も好きなのでしょう

“頑張って忘れようと思っています”
とのことですが
忘れようと努力(=本音を押し殺す)すれば
益々想いは募るばかりではないですか。

受け入れるのであれば
現状を受け入れるのではなく

もう一度、自分の想いを正直に伝え
そう応答を受け入れてはいかがでしょうか。

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有り難し
おきもち

質問者からのお礼

ログイン情報がわからなくなってしまい、お返事が大変遅れてしまい申し訳ありません。

ご相談に応じていただき、ありがとうございました。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ