信じるのは己
人生のうちに、結果的に人を裏切ったりしてしまう時があると思います。でも、私は、人を裏切ったりするのも別に良いと思っていて、ただ『自分自身』だけは、欺いたり裏切ったりはしてはいけないと思っています。
騙されても『決断』を選択したのは自分なので、もち騙す方が悪いのは大前提ですが…
自分の苦手な事を敢えて選択して、失敗したのなら自分で解決策を考えて、解決できる事なら解決し手に負えない事案なら上司に報告し解決を学び失敗を隠さず報告する。
とにかく『場数踏む』『自分を客観視』が、ここ一番のピンチの時に自分を支えてくれるバックボーンになり、パニックを最小限にとどまる事が多く感じています。
過度な自己評価をしないのと過小評価し過ぎないバランスが難しいですけど、今の自分が動じない心を少なからず持つ事が出来ました。
でも、冷めて居る自身を、時として悩みの種にもなっています。
アドバイスをお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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揺るぎない拠り所
ヤン・ウェンリー様
釋 慧心と申します。
拝見させて頂きました。
素晴らしいお心掛けです。
是非とも続けて頂けましたらと思います。
その上で自己を振り返り、バランスにもご留意されておられるとは、益々高みにおられることと存じ上げます。
私が素晴らしいと思いますのは、
そこに至るまでに悩み、学び抜かれた過程やお姿が想像出来るからです。
もし、その上で信仰心を持って頂けるのでしたら、神仏問いませんので、五指を揃え、合掌礼拝を心から毎日されてみては如何でしょうか。
必ず、得るものがあるはずです。
また、当たり前ですが、誰もがいつまでも若く元気では御座いません。
老いや病などのご縁が私の身の上に結ばれますと、自分の体を使って出来ていたこと、今まで出来ていた鍛練も必ず出来なくなります。
その時は必ず訪れます。
私や私の信念、己という拠り所が、拠り所にならなくなり、
更に世俗の道理はことごとく行き詰まります。
それは、10年先20年先か今日か明日か分かりません。
分かりませんが、必ず、この私に、訪れるところが、厄介なところです。
合掌の姿は、右手が清浄(しょうじょう)、仏性(ぶっしょう)、左手が不浄、俗人凡夫の私を表し、私と仏が会うと申しますが、
それだけでは御座いません。
目の前にいる相手と争う場合は、手を広げて身構えますが、
手を合わせる合掌の姿は、私の心に本尊や礼拝する対象に対して争う心がないことも表します。
また、礼拝は、大切な視覚、聴覚、嗅覚を伏せてしまいます。
何をされても分かりません。
礼拝の姿は、この度はお疑いの心も持ち合わせていないこと、
つまりはお敬いの心を精いっぱい表す姿です。
誰に於かれましても、出来ることなら早くご信仰をお持ち頂けましたらと願う次第で御座います。
質問者からのお礼
アドバイスをありがとうございます。
真摯に受け止めて、アドバイスを参考に頑張りたいと思います。