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幸せという気持ちと反対の気持ち

回答数回答 1
有り難し有り難し 15

私は今、再婚し優しい主人と子供も一人授かり幸せな時間を過ごしています。

しかし、幸せを感じれば感じるほど自分だけ幸せでいいのか、離婚し離れて暮らしている子供たちはどんな気持ちでいるのか考えたりして 苦しくなります。

離れている子供たちに、何もしてあげれないし心配したり心の中で応援することしかできません。あの子たちは色々きつい思いをしたりしてるのに自分は…

幸せな気持ちと申し訳ない気持ちとごちゃごちゃになり、これでいいのか 自分は幸せになってはいけないのではないかなど考えてしまいます 苦しくなります

私はいまの私でいいんでしょうか…

分かりにくい質問ですみません。何かお言葉を頂けたら幸いです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたはあなたの手の届く範囲内を生きる

早い話がNHK観ながら日本テレビ、フジテレビ、テレビ朝日を同時に観れないでしょう。
日曜日に笑点と大相撲とちびまる子ちゃんを同時に観ようと思ったら録画するしかないのです。
自分の命の@アドレスがあるところが自分の@息をしておる所です。
そこ以外に私たちは分身の術でも使わん限りゆくことは出来ないのです。
分身の術を使いたければ、部下を雇うか、自分の行いを分身にしてください。私のここでの活動は孫悟空の分身の術のようなものです。西遊記で孫悟空が毛を吹けば自分の分身ができるという話が象徴しているのは、自分の行いが自分の分身であるという意味合いでもあります。
あなたができる分身の術は何か。それを考え、マスターしてください。届くべきものがお子さんたちに届くでしょう。
本心には忠実でいることが大切です。
恋を選ぶか子を選ぶか。子を選ぶといっても、子供たちはあなたではありません。
子供たちは子供たちの人生。
ですが、母親を必要とする時期もありましょうから、できる限りのことをしてあげる他ありません。
つき合いというものは、あなたと子供Aさん,あなたと子供Bさん、あなたと子供Cさん、あなたと子供Dさん、あなたと旦那さん。それぞれ、それぞれ皆、分離・独立しています。
独立しているんですから、それぞれの関わりを独自になさるべきです。
あなたが幸せで仕方ないなら、その余裕から、幸せのおすそ分けをどれだけできるかどうか。
布施というのは不幸でもできる活動です。
私も今、お盆で大忙しですが、こうして法布施活動はできている訳ですから、あなたにも世間の人にもできないという事はありません。できる事をできる範囲でよいのです。やらない内から嘆くより、与えれば実感が沸きます。お子さんたちに悪いなぁと感じるのはそろそろ与えるべき時期だというサインです。私はできるのにやらないのであればそれは私がケチなだけ。ケチのことを吝嗇といいます。もの惜しみ、人にくれてやれないケチな心です。ちょうどこのお盆は「施食」といってみんなでお布施をしあう時期です。できる限りの愛情、お小遣い、しあわせ、知識、配慮、智恵、おしえ、可能性、機会、時間などを布施してあげてください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お忙しい中、回答して頂きありがとうございました。
おっしゃる通りですね。
それぞれの関わりのなかで自分にできることを続けていきます。
ありがとうございました。

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