虐待した母親は、地獄に行きますか?
小さい頃から精神的虐待、身体的虐待を受け、子供らしい幼少期は送れずに大人になりました。毎日が地獄のような日々。
中学時代は母親からの性的虐待も加わり、高熱のため下剤を入れることにり、性器に何度も入れられたり、産婦人科に連れて行かれてむりやり診察を母親の目の前で受けさせられたりしました。
異性関係には特に般若のようになり、あばずれ、男にばかり色目を使いやがって、というふうで、女性らしい格好や髪型をすると「男のためか?」「あばずれ」と暴言を吐かれました。私の幸せそうな姿は母親を刺激し、いつも不幸を演じている必要がありました。
一度、とても大好きになった方がいて結婚の約束までしましたが、結局母親に「あなたのため」という名の下に壊されました。
母親は絵手紙の先生で、それはそれは素敵な言葉を書き、母を慕う生徒さんはたくさん、まるで人格者のような扱いでした。その影で、産まなきゃよかった、あばずれ、能無しと毎日暴言を吐かれ。
ただ、自分がされていることが虐待だと気づいたのは40歳前。ひどい人だと思ってはいましたが、親は絶対、親を大切にしないと地獄に落ちる、親を大切にしないと死んでから呪ってやる、最後に信頼だけでるのは親だけ、他人はいい事しか言ってくれない、と言われ続けており、馬鹿みたいに虐待親の看病や看護までして、3年前に看取りました。
母親の死後、漠然とした怒りや憎しみの原因がどこからくるのか、自分がされたことの大きさに愕然とし、怒りと憎しみでいっぱいです。
すでに失ってしまった若い日々、あどけないこども時代を送れなかった過去、悔しさでいっぱいです。
唯一の救いは49日に夢に出てきた母親が「天国に行けなかった」と一言いったことだけです。
よく、親は死んでも見守ってくれているとか、死ぬときに迎えに来てくれる、などと言いますが、間違ってもあの母親が私を見守ってくれるとは思えません。「いい親」を演じつつ、私の不幸をほくそ笑んでいるような人です。
生きているとき、仕返しをしてやればよかった、と思ってしまいます。
こどもの心を殺しても現世で処罰を受けずに死んだ場合、きちんと閻魔様は地獄に落としてくれるのでしょうか?私が苦しみつづけた年月と同じだけ、地獄でこらしめてくれるのでしょうか?
私が死んだとき、あの人が楽しそうにあの世にいたら、私はやりきれません。
母親への怒りと憎しみから逃れられない
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
仕返ししましょう
お母さんが地獄に行ったかどうかは分かりません。
ですが、あなたが残りの人生を少しでも楽しく過ごすことが一番の仕返しになるのではないでしょうか。
そのように考えて頑張って楽しみを見つけて生きていきましょう。
それにしても、一体何がお母さんを虐待に向かわせたのでしょうね。自分の子を虐待することしかできなかった、愛することができなかった、その為死んでも子に恨まれている、ある意味昔も今も地獄なのかもしれませんね。
すでに地獄にある 怨親平等
本当におつらい中、よく今日まで生きてきて下さいました。
世の中には愛情を知らない母親、子供は沢山います。
誰でも人の子。だから親でもその親が大切。
子どもを良くしようとして意地悪な事をしてそれを教育・愛情とはき違えている親は親以前に人間失格。
あなたを虐待していた時点であなたの母の地獄は始まっていたのです。
あなたは地獄の業火によく耐えてこられました。本当にありがとうございます。
地獄の如き悪苦の業火に打ち克つには希望、慈悲、自信、智恵、寛容、愛、光…、
だから、人間、地獄を極楽に転ずるために誰もが慈悲心、愛、宗教心が必要なのです。
地獄極楽ってどこの話か。
世の人それぞれ心の中です。
あなたをいじめる母親も地獄。母親に地獄で苦しめと願うあなたの心も地獄。
心が地獄ならばこそ、仏菩薩の光が必要。
誰もが優しさ、愛、慈悲、寛容という宗教心というべき心が一人ひとりにインストールされていなければ、人は自分のことしか愛せません。他人が仏菩薩の心を持っていればいいというものではない。
無宗教の本質はみな自分の都合・エゴ人生です。
宗教に所属していても宗教心が無ければ同じこと。
あなたと母親との間に愛が生まれなかったにせよ、あなたはあなた自身の宝蔵にしかない愛・やさしいがあります。そのこころを引き出して頂きたいと思います。
地獄を転ずる仏心を引き出すのです。
愛が生まれるのは本当に相手が幸せになれるように願い、聞き、問い、尋ね、語らい、行為する事といえます。
故にどこかで自分と同じ苦しみを味わっている人を手助けするべく奮起していただきたいのです。
小さな命から宇宙全体までをも救うんだという大誓願。
小さな愛を植える。それが菩提心です。菩提心によってそこに愛が生まれるのです。
母親が立派な人徳者ならばよかった。
そうではない母親の元に生まれてくる人間は大勢。
だから自分の中の菩提心を爆発させる必要がある。
母親が子供が望む形の愛を与えていれば子供は自ずから従順となり、
母親が自分の価値観で子供が苦しむすれば子供は親の言う事を聞かなくなるのは当然。
虐待も負の精神性をあなたは敢えてあなたの代でその負の連鎖を断ち切らなければいけません。
それを打ち破り、阻止できるのは仏教の持つ明晰性ある理性と慈悲。現代の最高の人道的理性、智慧と慈悲のこころです。
分かりません。
こんにちは、何故だか昨日、Amazonの「おすすめ書籍」で出てきました、『母がしんどい』。貴女のこの問いに答えるためかも、とかちょっと感じた次第です。
さて「虐待をした母親は地獄に落ちますか」という問いですが、私たち浄土宗の答えとしては「虐待したか否か」は往生(極楽へ行く)とは関係ありません。
ではどういう人が往生するのか。「自らの至らなさを弁え、それを懺悔(さんげ)し、お念仏を称えた者」が、その要件です。お母さんはそれをされましたか?それをご存知ですか?
それを確かめる術は、今となってはないのではないかしら。如何ですか? であるならば…せめて私たちが今からできることは「彼女の心の内を知る」ことだと思います。それを「良い心」と思う必要は全くありませんし、相変わらず憎んで構いませんが、「こういう原因があって、あのような振る舞いをしたのだ」ということを知ることができれば、あとは時間に任せていれば、貴女の心の中で占める場所は、ドンドン小さくなっていくと思います。「もう亡くなっている」にしても、ご親戚などで彼女の幼少時を知る方は、まだいらっしゃるかも知れません。
思うに、この辺りの「母が大嫌いでも良いですか?」は、何年か前の佐野洋子さんから世に出た話だと思います。貴女と同じ経験をした方ではありませんが、「分かります、それ」ということが多く出てくるだろうと思います。
ということで、もう一つの質問。「私がアッチへ行った時…」は、「あの人」が楽しそうにしているか、すまなそうにしているか?そんな些事には拘らなくなっていますから、心配しなくて大丈夫です。アッチでは、貴女も仏様の研修生ですから、そんな俗世の傷はスッカリ癒えていることでしょう。