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無理

回答数回答 1
有り難し有り難し 19

陰湿なことをされ続け
旦那が怒りの頂点になり
家を出ることを決意しました。

幸い義家族以外は
娘の事優先に考えてくれて
周りに頼っていろいろと話を進めています

もう義家族とは縁を切るつもりです。
食材を捨てられ、靴を投げられ、
私達がして来た事は無かったことになり
もう付いていけないです。
何より子供の物を勝手に捨てて
子供を理不尽に怒り
子供に大人の対応を求めるのが考えられません

3ヶ月しか友好関係を築けなかった私は
弱いのだと思います。
私の至らない点はあったはずです
私は完璧な人間でないし
器用な人間じゃないです
口も足らない人間です。
旦那や周りの人を振り回している事が
とても悪く思います
ここでも嫁ぐ前に相談しました。
思い描いたものが何も出来なくて申し訳なく思っています。

子供のために動いて周り振り回してよかったのか
それがわかりません。
嫁ぐ事が決まる寸前に妊娠してしまい
泣く泣くおろした子供もいました。
嫁ぐ際の交通や、金銭の考えた上でです。
なのに幸せな生活遅れず
私は後悔しかないです。

私は逃げて幸せになっていいのでしょうか


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ケロリン

思いを述べて頂きありがとうございました。
もう、過ぎた事。
どうでもいいじゃないですか。
まず、一度あなたのこだわりと旦那に対する理想の要求をゴミ箱にポイポイしてください。
それは自分の価値観・正義にこだわり過ぎるが故に生じる意地のようなものです。
大人の意地のために離婚したらみんなそう離婚です。
離婚はいつでもできますから、まず、全ての関わりを切り捨てて本当に関わるべき人間数名だけに絞りましょう。
旦那と子供だけでしょう。
本当のことを言いますと、あなたはあなたのことだけやってりゃいいのです。
あなたがあなたの事として、旦那と子供のサポートをする。
子どもに高すぎる人格を要求する旦那ならば、それを「まだ、道理もよく分からない子供に対してそんな言い方は可哀想です。もっとソフトになさるとか、感情的に強く言うことだけはやめてあげてくれませんか?子どもだって悲しがってます。」などと、あなたの事として発言しなされ。
人間は関係性によって苦しむ。脳内関係性を持ち出して、図式化して目前が見えていないことがあるものです。
深呼吸してみましょう。
相手のために生きない。
自分は自分を生きる。
子どもの幸せのために生きる。
子どもの幸せの為という正義感にもとらわれない。
今自分を見てみてください。
周りとは独立しているのが分りますか?
世間の痛ましい事件だって厳密には人様の事でしょう。
首を突っ込み過ぎると人様の事でノイローゼにすらなる。
あなたが液体ならば他の液体にあまり深く関わらんことですよ。
あなたが水で相手がショーユやソースだとすると、混ざり合い過ぎるとあなたの透明度を損ないます。
水に流して、再出発してください。
怒ってお湯になったら、一息入れて雲から雨を注げばいいのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お話聞いて頂きありがとうございました。
昨日はほっとしたのか何日ぶりだろう?
安眠しました
体も戻ってきて、食欲も復活です。

いい子もやめて、自分の事考えて生きます。

いつもならお礼の言葉は
色々思い浮かぶのに
ありがとうございますしか出てきません。

ほんとに救われました。
ありがとうございました。

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