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ひどい目にあわされた人を許せない

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有り難し有り難し 20

前職の上司に引き抜かれ、その人が独立して作った会社に入社しました。
しかし、わずか半年もたたないうちにその人がうつ病になり会社を続けられないと解雇されました。
もちろん見通しが甘かった自分も悪いのですが、こんなことなら安定した前職をやめなければよかったと後悔しています。
しかもその人はすでに別の会社に就職し、SNSには普通どおりにつぶやいたりしています。
転職活動していても何故すぐに退職したのか必ず聞かれますし未だに再就職先も決まらず、退職に関するいろいろな手続きもきちんとしてくれず自分が全て調べて動かないといけない有様です。
今後は子育てしながら働く予定でしたので人生設計もめちゃくちゃ、お金も入る算段もなくなり途方にくれています。
家族には責められるし、もう自分が悪いという気持ちでつらくてなりません。
同時にその人をうらんでしまいます。許せません。
この気持ちをどうすればいいのでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

人を怨めば怨みのガスで自分が毒される

あなたの為に厳しく申し上げれば、人を怨む暇があったら、さっさと次の仕事を探すべきです。
人を怨んだって、その怨むエネルギーで自分の身心が蝕まれるだけだからです。
あなたが選択した道でもあるのですから、見通しが甘かったと言わざるを得ません。ごめんなさい。
あなたがあなた自身の人生やお子さんの事を本当に思うのならば、本当に真剣にたった今から恨みを捨てることをおススメします。
恨みの心って抱えているだけで、イライラしますし、作業効率は落ちますし、イライラやドンヨリは子供は敏感に察知します。そうすると子供にもそういう❝かげり❞が伝播してしまうのです。良くないからすぐにやめましょう。お子さんからすれば、お母さんが不安やモヤモヤを抱えているのは、子供を一番不安にさせる事です。
恨みのこころがあると顔に陰りがあらわれます。
面接や採用時も、顔は見られます。観る人が観ると、その❝かげり❞を察知することができます。
私も人一倍その力は強いつもりです。
恨みは執着の一種です。
ああ、あの時、あんなことを選択しなければ、あの人のいう事なんか信じなければ…、
「たられば」は未来に対するアリもしないことを愚痴るものですが過去の事に対しても「たられば」を起こしておられるのです。
「たられば」は、現実ではありません。
相手にしているのが、未来の事か、過去の事だからです。
あなたが相手にすべきは現在です。
もし、こうだったらなぁ、あのときこうしていればなぁ、は共に、現在の事ではありません。
ため息をつくのは今日を最後に致しましょう。
「はぁ、ついてないなぁ」
「さて、まぁ、仕方ないか!」気持ちを切り替えて、やるべき事をやりましょう。
少しずつでいいのです。ちょっとずつでも、一歩ずつでも、1センチでも。
とりあえず、笑ってください。笑って邪気を追い出しましょう。「ま、いっか。」

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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