ゲイ(同性愛)・バイセクシャルを仏教は否定しますか?
過激なゲイのイメージや運動には正直共感できないのですが、ごく「普通」のゲイの友人がいます。社会的に他人に迷惑をかけず一市民としてのルールを守り社会的責任を果たしている以上、そのひとの人格もなにも見ずにただゲイだからという理由で否定されることには疑問を感じています。日本の社会ではまだまだ偏見も強いと聞いたのですが、仏教界ではどうなのでしょうか。
宗派問わず、一般的に日本ではどうなのかという質問なのですが、一部キリスト教やイスラムで弾圧されがちな同性愛(Abominationと強い言葉で否定されることもありSinだとされたり、一部イスラムの国では迫害をうけ罪人として投獄・殺されることも)は日本における仏教界ではどのように考えられていますか?
1.教義(仏教の教えという点からは肯定否定されているのか)、
2.現状(理論などとは別に実際にはどうなのか、仏教界に受け入れられている例などあるのか)、
3.個人的には、ひとりの人間・ひとりの僧としてどう思われるか。(どうあるべきだと思われるかも教えていただければ嬉しいです)
4.もしも1-3の質問にて否定される理由がある場合は、なぜ、否定されるべきなのかを教えて下さい。本当に率直な意見をお聞きしたいだけなので、どんな意見でも参考になりますので(世界にはたくさんの意見があってしかりなので)正直な意見を聞かせていただければとても嬉しいです。
5.日本の社会でまだまだ偏見があるというのは、なにが一番の問題なのでしょうか。ゲイのひとを現実に身近に知らないからおこる偏見なのでしょうか。
NB: 性同一障害などの医学的な病気ではなく、ここでの対象は、
ゲイ=女性・男性を問わず同性のひとのみが恋愛対象、
バイ=性別関係なしにどちらもパートナーとして恋愛対象となる、
という意味で、見かけ・態度・人種・国籍・その他諸々では区別がつかず、どこにでもいる普通のひとをさしています。(いわゆるラブパレードなどでみるような過激な服装の下品なイメージのゲイではなく、ファッション的・ゲーム的なものや、AVなどで表現されるような歪んだゲイの対象は別なので除きます)
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
全く否定されません。
浄土真宗の立場としてお答えします。
1.教義
在家者に対しては邪淫を戒めていますが、邪淫とは浮気のことであり、同性愛に関しては全く問題としていません。
2.現状
宗門内では差別の問題として取り扱われる場合があります。
同性愛を否定することは差別であるという認識があり、なくしていくべき問題だという姿勢です。
3.個人的には、ひとりの人間・ひとりの僧としてどう思われるか。
好きにしたらいいと思います。
お互いがお互いを好きであるのであればそれでよいかと。
ただ、最近ではテレビなどでオネエ系○○というよな取り扱われ方がよくされオネエ系タレントが再々クローズアップされていますが、あまりに出過ぎかなという思いはあります。
あと単純に、仮に男と男がキスをする姿を見たとするならば、私はいい気分はしないと思います。
男女のキスでもあまりに露骨なものは見苦しいです。
それを差別だと言われてしまうと少し困ります。
これは私の感性であると思います。
4.もしも1-3の質問にて否定される理由がある場合は、なぜ、否定されるべきなのかを教えて下さい。
否定しません。
いいと思います。
正し、同性愛をしたいとは思いません。
5.日本の社会でまだまだ偏見があるというのは、なにが一番の問題なのでしょうか。
ゲイだという理由で何を否定されたのか?ここが問題だと思います。
偏見というのが具体的にどのようなものなのかという事も気になります。
個人的な想いとして、自分と違う感性を持っている人の感性を理解することは難しいです。
映画や芸術、音楽や恋愛等、自分はこれがいいと思っているのであればそれでいいのかなと思います。
しかし、それを他人にも押し付けるのであれば問題だろうと思います。
人の命を尊重しない宗教は思想団体であると思います
仏教ではというより個人的な見解ですが、誰であっても否定はすべきではありませんよね。
もって生まれた個性を否定することはその方の存在、生存そのものを否定することになります。
生まれながらに持っている性質、特質、個性をそのまま理解する姿勢を持つべき事であろうと思います。
私の居た道場でもたまたま同性愛者の方がいましたが、賛否も何も無しに皆そっとしていました。
ゲイの方のみならず元〇〇〇などと、いろんな分野でそれぞれ少数派の方がおられます。その人の突出した個性や肩書きを無くした本人そのものと接する生きかたこそが仏教的精神といえます。
肩書き越しに接することは人間世界の精神です。(^<^)個性の一種と捉えて最初からゲイだ、ゲイだ、と特別視しなければ良いのです。
個性的な人はどんな理由であれ少数派扱い、特別視されてしまい、孤立した境遇に置かれてしまうのが世の現実です。持って生まれた事に対して理解なく偏見を助長させることは人権侵害にかかわる事です。
今や宗教よりも人権を尊重すべき時代です。
どんな宗教であれ宗教的価値観のために人の命が軽んじられ、時に奪われてしまうことなどはあってはならないこと、宗教性を欠いている特殊な思想であると思っています。
仏教では〇〇な立場だから✖というより、〇〇な行いをすることが✖という姿勢です。
人間の本質は行いだからです。
1.肯定も否定もしません。むしろ男女の見を起こすことも不邪淫戒に当たるという説もあります。観音さまは男でも女でもありませんから男女の❝隔ての意識❞を超越している姿です。男女の性別の隔てを忘れて円満に和合して生活、接している時があります。人間生活の究極は男女、ゲイ問わずそこに見出される円滑な関係であるかと。
2.3私の居た僧堂では現実に存在していました。それは❝ゲイ❞だ、という肩書きで観ている様子であって、普通に接していれば問題ありません。 たとえば職業でも同じことが言えます。あの人は❝〇〇職❞だから、といって差別されるべきでしょうか?
4.否定はまず、人権的にもあり得ません。そうして生まれてこられたのですから❝本有❞のものです。
5.❝男・女らしさ❞という幻想がどこかにあるのでしょうね。。
あなたのように、少数派の方々への偏見を無くすべく、活動されるのは本当に素晴らしい行いです。
質問者からのお礼
釈心誓様 ご丁寧なメールをありがとうございます。1.2.教義が否定しなければゲイの知人Sが仏教を信仰した場合堂々と真剣に信仰にむかえるということですから嬉しく思います。ご指摘の通り浮気というのは信頼を裏切る行為ですからそれはゲイであろうとなかろうと問題で人間の愛情・信頼関係の深さに性別は関係ないと私も思います。3.必要以上に社会でベタベタすることはS曰く「様々な宗教・価値観の存在する社会においてそれは大人として周りに配慮することのひとつで相手の気持ちになって考えればよいだけ」と(私も同感)。3.オネエ系=外国で言うドラッグクイーンでしょうか?男性が女装・女性言葉を使うというのは、ゲイとは根本的に意味が違います。ゲイは趣味でも選択でもなくなりたくてなるものでもやめたくてやめられるものでもなく(嗜好であればそれはゲイではない)、私達が異性に理由なく恋するのと同じに、彼らも理由なく同性に本来私達が異性に抱く感情を持つことで、その感情は単に性的なものではなくて、私達と同じで、夫婦が愛しあうように、家族を愛するように、大切なひとを愛する心からの感情です。(対象の性別が違うだけ)ポルノやゲイパレードでみるような過激な服装や態度とは違い(Sもあれは下品で逆に誤ったイメージを植え付けていると否定的です。様々な「ゲイ」というものができてしまっているのは事実でそれが誤解に結びついているのも事実)多くのゲイは平凡で服装、言葉、態度では区別がつきません。(男性的な女性などいますがそれはゲイでなくてもいるかと…)。5.嗜好ではないのでゲイであることが他人になにかを押し付けるということはありえないのですが一部外国では宗教的・社会的に排斥の動きがあり家族・職場にいえない、などあり日本ではどうなのかと疑問でした。考えるきっかけを頂き感謝しています。ありがとうございました。
丹下覚元さま お返事を読んでいて深く考えさせられました。ゲイ以前に人間関係というものの「本質」、ひとの命を尊重することと宗教というものの在り方、大変勉強になりました。なぜそうあるのか説明どころか自分の意思でどうこうできる状況ではないにも関わらず、ありのままにそれを理解しようとする「寛容さ」は、実は、存在するようで、現実的には先進国でもかなりのギャップがあります(表向きに存在する権利と現状に)。ゲイ=同性全てに性的興味を持つかのごとく避けられたり(いわゆる普通のひとが異性全てそういう感情を持つわけではないのと同じでそうではないのに)、病気のように扱われたり。権利があっても主張することが逆に自分と周りのひとを傷つけてしまうことが多いため、ひとり感情を押し殺しているひとも多いです。そんな中、僧堂でご一緒だったゲイの方がひとりの人間として同じように受け入れられていたという現実を知ることは大いなる励みになります。一部のゲイはわかりませんが、多くの人が望むのは静かな平和的な共存だけで誰かに嫌な思いをさせたり自分の主張故に権利を害したりそういうことは望んでいませんが、一般的にはまだまだ異常な(過激な)イメージを持たれ誤解されがちで溝はなかなか埋まりません。…「本有」という言葉、初めて聞いた日本語です。人間の本質をみることの大切さ、本当に、ただやみくもに「こうあるべき」という観念のみを追うのではなく、自分の「行い」を客観的に見ることはとても大切ですね…。新たな目で私もしっかりと自分の矛盾を正していきたいです。貴重なご意見をありがとうございました。