仏様とはなんですか?
先日祖母が亡くなってから「仏様」という言葉をよく聞きます。
よく聞きすぎて仏様の意味が分からなくなってしまいました。
お寺では「阿弥陀如来様が仏様にしてくれる」と言われましたが、
それでは阿弥陀如来様は仏様ではないのでしょうか?
家の仏壇の真ん中には阿弥陀如来様の絵がかかっていて、祖母はこの絵を「仏様」と言っていました。
でも、前述のお寺で言われた通りなら、祖母が毎日手を合わせていたのは、阿弥陀如来様ではなく、先に亡くなった祖父ではないでしょうか?
また、祖母が亡くなってから二・七日、六・七日に、夢で祖母に会いました。
そのことを叔父に話したら「あなたに仏様がついてしまっている」と言われました。
仏様がつくと夢に出てくるのでしょうか?(そもそも「つく」ってなんでしょう?)
毎日正信偈を読むように言われたのでやっているのですが、何も理解していないのに続けることに意味があるのでしょうか。。。
あまりに初歩的なことで申し訳ありませんが、ご回答よろしくお願い致します。
仕事に夢中
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
阿弥陀様は全てのいのちを仏にする能力がある仏様です。
とても大切な疑問です。
微力ながらお答え致します。
>仏様とはなんですか?
仏様は「恒河沙数諸仏」と言われ、ガンジス河の砂の数ほど沢山おられます。
これら全ての仏様は一様に同じ悟りの境地を持ち、神通力という特別な能力をお持ちです。
仏様は全ての苦しみから解放された神通力を持つ自在な存在です。
そんな仏様になることが仏教の目的です。
その中でも阿弥陀様は特別に超え優れた仏様で、全てのいのちを仏にする能力を持つ唯一無二の仏様です。
阿弥陀様は極楽浄土を建立なさり、そこに全てのいのちを連れて行き、仏としてのいのちを与えてくださいます。
悟りの境地は同じでも、他を仏にできる仏様は阿弥陀様だけです。
>祖母が毎日手を合わせていたのは、阿弥陀如来様ではなく、先に亡くなった祖父ではないでしょうか?
家のお仏壇は阿弥陀様の世界である極楽浄土をあらわしたものです。
ですので、お仏壇の中心は阿弥陀様です。
また、私たちはいのち尽きた後、この極楽浄土で仏になります。
だからお仏壇に手を合わせることは、阿弥陀様に手を合わせることであり、またご先祖に手を合わせていることでもあります。
あくまでも信仰の対象は阿弥陀様でありますが、お仏壇は故人を偲ぶ場所にもなります。
>仏様がつくと夢に出てくるのでしょうか?
「つく=とり憑く」ということでしょうが、仏様には使わない表現です。
しかし仏様はずっと寄り添って下さいます。
自在ですからいつでもどこでも一緒です。
夢に出てくるかどうかはお経に説かれていませんのでわかりません。
しかし、自在な存在なので出てきて下さるのかもしれません。
>理解していないのに続けることに意味があるのでしょうか。
お勤めは阿弥陀様への御恩報謝です。
正信偈は親鸞聖人が浄土真宗の教えをギューっとまとめて下さった偈文(歌)です。
浄土真宗の信者はこの正信偈をお勤めすることが日常勤行とされています。
もちろん理解していなければいけないということはありません。
しかし、毎日お勤めすることが一つのご縁となって、「内容を知りたい」「仏法を聞きたい」と思って頂けたらいいなと願っています。
おばあさまのいのちのご縁で、sugisakiさんが仏様の教えに出遇うご縁を頂いたのです。
是非、このご縁を大切になさって仏様の教えを聞いてください。
如何なるか これ ほとけ
「あの人は仏様のような人だ」→慈悲深い人だ
「ほとけさまがみているぞ」→良心 本当の心
「お墓にウチのほとけさまが眠っていて…」→ご先祖
「八っぁん、てえへんだ!川でホトケがあがったぞ!」→亡くなった人
「最近あっちの方もホットケさまでね」→ほったらかし
「ホトケにしてやる…!」→殺意
「ほとけ」→歴史上の人物ゴータマ・シッダールタ
「ほとけ」→仏陀 覚者 悟りを開いた人
「仏」→フランス
「仏ラ薬局」→横浜鶴見にある薬局屋さん(一瞬仏かとおもったらカタカナのイムラだった井村の意か。)
日本語というものは面白いですね。味わいがあります。
禅問答では
「ほとけとは何ですか?」
という問いに対して
「人間の無心の様子です」
「いまのあなたのそのことです」
「苦しみがあっても一切を流しされている時の様子です」
「ただこれがこうあることじゃ」
「あなたの純粋な心だよ」
「向かっているそれが只そうある様子をほとけという」
「天地自然の理法だよ」
なかなか味わい深いと思いませんか。
色んな言葉があっても、そこに見出される❝感覚❞。
お釈迦様は仏陀になられて、その心を色々な表現をされました。
一番仏さまを如実に知る方法としては、あなたがお釈迦様のような心になっていかれるように精進されて会得される❝仏心❞です。
おばあさまやお寺様がおっしゃられる所の意味は
「阿弥陀様という天地宇宙の大いなる働きが、亡くなられた故人様をして人間的なはからいを一切っ超越したやすらぎの存在へと導いてくださる」という意味合いではないでしょうか。
阿弥陀如来様とは、無量寿(無限の時間)無量光(無限の空間)ですから、実質的には、いま・ここの無私の真実です。私たちはいつでも、その大いなる無私、無我=人間的なはからいから離れた様子、働きの中にある訳ですから、これを悟ると、人間誰でも水の中で魚を得た魚のように仏になれます。
「いかなるかこれほとけ」
「汝自身に問うべし」
「問う所、畢竟じて如何」
「ただ これこれ」
(これがこうであってこれ以上でもこれ以下でもないぞ の意)
仏様とは「真実のはたらき」です
亀山純史と申します。浄土真宗本願寺派の僧侶です。
①仏様とは、第一に「この世で真実に目覚めた人(ブッダ)」を意味します。そして、大乗仏教ではその真実に目覚めた人が目覚めた、その「真実のはたらき」そのもの(真実のはたらきそのものですので、私たちの目に見える形のものではありません)をも、仏様として仰いでいます。(これを法性法身と言います。)さらには、その真実のはたらきが私たちに見える形で現れた姿をも仏様として仰ぎます。(これを方便法身と言います。)ちなみに、「如来」という言葉は、真実(=一如)から来た者、という意味です。そこで、阿弥陀如来とは何か、ということですが、阿弥陀様は、上記の中の方便法身に当たります。それは、「真実の世界から、真実を知らせるために、人格的に現れてくださった仏様」「限りない智慧と慈悲の仏様」「全ての人を必ず救うという願いを立て、はたらき続けてくださっている仏様」「南無阿弥陀仏という言葉となって、私たちにはたらきかけてくださっている仏様」となります。
②浄土真宗における礼拝の対象は、阿弥陀如来になります。故人ではありません。なお、浄土真宗におけるお仏壇は、極楽浄土の様を表したものです。
③仏様がつくとは、どういう意味かは分りかねます。俗に故人を仏さんということがありますが、ここでの仏様とはその意味なのでしょうか。そして、つくとは、霊が取り憑くなどの「つく」なのでしょうか。いずれにしても、仏様または故人が取り憑くということは、浄土真宗の教えにはありません。
④正信偈は親鸞聖人がお書きになられた『教行信証』の中に出てくる正信念仏偈(略して正信偈)という偈文です。大まかに言って二つの部分から成り、前半部分は、無量寿経に明らかにされている本願を信じ、念仏もうす道を讃歎し、後の部分では、この教えの伝承者であるインド・中国・日本の七高僧の教えの綱要を記してその徳を讃歎しているものです。本願寺出版社からも正信偈関係の書籍は出版されておりますので、一読してみてはどうでしょうか。
以上、ご参考にしてください。