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心の距離を感じてしまいます

回答数回答 2
有り難し有り難し 10

夫の父が亡くなったことで一度相談申し上げた者です。
もう少し掘り下げてご相談させていただきたく、投稿させていただきました。

私は結婚5年目、3歳の子どもがおります。
夫の実家とはかなり離れた場所で生活しており、帰省も年に2度ほど。
夫の実家は義母、夫の兄一家が長年の同居です。
中元歳暮などのやり取りは欠かしたことはないものの、今ひとつ夫の実家になじめないまま、義父の死を迎えてしまいました。
通夜葬儀とも、興奮状態の3歳の子どもの面倒を見ることで精一杯で、きちんとしたお手伝いも出来ず、悲しみに暮れる夫や嫁ぎ先の家族に寄り添うということもほとんど出来なかったと思います。
これまで、自分なりに嫁ぎ先に馴染もうと、いろいろ試してきたつもりでしたが、努力の方向が違っていた気がします。
これから、おつきあいなどどのようにしていけばいいのか途方に暮れています。
何かをしたい気持ちはあるのですが、血族ではなく、全く違う土地で育った自分は、夫を始め嫁ぎ先の方々と悲しみを心から共有するということは出来ないと思いますし、何をするにしても、余計なお世話になるのだろうか、自分はしゃしゃり出てはいけないのだろうかといろいろ考えてしまい、何も出来なくなります。
四十九日法要も、当然行かせていただく心づもりだったのですが、喪主をつとめた夫の兄や兄嫁からは、遠方だし、夫だけの出席でよいと言われ、おそらく法要に出席しても、通夜葬儀のとき同様、興奮状態になってしまう子どもの対応に追われるだけで、かえってご迷惑なのかもしれないとためらう気持ちが出てきました。
このままではいけないけど、これ以上嫁ぎ先の家族に踏み込もうとするのも、なんだか悪い気がしてしまいます。
夫や嫁ぎ先の家族との向き合い方がわかりません。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

人間は不完全で間違うのです。 安心して間違って下さい。

遠方の夫の家族とどう向き合えばとのことですが

夫や夫の家族は普段から一緒にいるか
もしくは歴史を共有しているのですから
あしたばさんがその場で同じように馴染もうとすると
心の距離を感じてしまうのでしょう。

あしたばさんにとっては
どう向き合っていいかわからない関係なのだと思います。

ただあしたばさんは
これをわかった関係にしようとしている。
年に2度しか会わないし、行っても気を遣うし
迷惑だからもうやめとうこうかな
でも嫁としてそれでいいのかな、、、

あしたばさんにとっては
遠方の夫の家族というのは
わからないところなのだと思います。

四十九日法要も
相手からは遠いからいいよ

自分からはいっても迷惑なのではと参加せずに、
後々、不義理だったのではと後悔するかもしれませんし。

是非いかして下さいといって
法要中にお子さんが騒いでほとんどお参りも出来ずに
また心の距離を感じて
行かなきゃよかったと後悔するかもしれません。

それはもうわかりません。

正しい答えを求める限り
途方にくれるしかありません。

人間は不完全で間違うのです。
そこから学んでいくのです。
安心して間違って下さい。

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有り難し
おきもち

それが丁度いい距離感

関わってくれと言われれば関わればよいのです。
あなたはやさしい方ですね。
献身的にご主人様の為に尽くされたいと思う事、素晴らしいことです。
そのお気持ちをそのままお伝えすれば、ご主人も喜ばれると思います。
家に残るのも愛、ついていくのも愛、配慮して寄り添うのも愛。
出来なくたっていいのです。
あなたが「したい」と思う事をなさればよいと思います。
ご主人も、ご実家とあなたとの丁度いい距離感を一番分かっておられるのです。
実家ルールが何となくあるでしょうから、各家庭でそれに順ずればよいと思います。
何事も、善意があれば悪いようにはなりません。
ご迷惑だから、、、という善意として、行かずも良し、どうしても、ご供養したいという善意でついていくも良し。あまり立ち入ってほしくないだろうからという善意でも良し。
参考にならなかったら申し訳ありません。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お返事ありがとうございます。
お葬式だけでなく、嫁ぎ先では失敗ばかりで、ずっと途方に暮れてばかりの結婚生活でした。ですので、余計に心の距離を感じてしまうのかもしれません。
安心して間違ってくださいという言葉をいただき、少し気持ちが軽くなった気がします。もう少し肩の力を抜いて、自分なりに手探りを続けたいと思います。

お礼が遅くなりましたが、ありがとうございます。
法要は行くことにしました。あまり私が遠慮しすぎるのも、主人には歯がゆいようです。
かといって、ずけずけ入っていくようなことになっても良くないと思うので、私なりに神経質にならない程度に歩み寄れたらと思います。

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