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大好きな彼を疑ってしまいます

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過去の恋愛で浮気をされた経験から、現在の彼の事も
些細なことで「浮気をしているのではないか」とすぐに疑ってしまいます。彼の行動や、彼の部屋のちょっとした変化などからどんどん妄想がふくらんできて、他の女性の存在を疑ってしまうのです。先日も私が彼を「怪しい」と問い詰めてしまい、ついに彼から「いつもありもしないことで勝手に疑われて不愉快だ。君といると疲れる」と言われてしまいました。彼を傷つけてしまったこと、いつも優しく接してくれる彼を疑ってしまう自分が情けなく、辛いです・・・
どうしたら彼を心から素直に信じ、疑う心に打ち勝つことができるのでしょうか?ご回答よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

問題ガール と 別れる

Lesson1
仏道的に申し上げると、その影は自分を相手にしてる姿。
リアルの彼「A」ではなく、自分の彼に対する思いの方「B」を相手にしている状態…です。
本物の彼は「A」です。あなたの彼への思い。幻は「B」です。
自分の中の「B」を彼そのもののように思いこんで錯覚してしまうのが多くの人です。
だから仏教が必要なのです。
今日、よく観察してみてください。
実は「B」はあなたの中の彼に対するセルフイメージ(自分の想念 自分の作った相手への人間像)です。
「♪まぼろしを愛したの~♪」などで歌われる所の、リアルの相手ではなく、相手に対する思い、セルフイメージなのです。
これが、お分かりいただけないと以下は話になりませんので、自宅坐禅をおススメします。そして自分の思いはどこまでいってもリアル彼氏「A」そのものではなかった、ただの情報、影であったと悟ってください。
Lesson2
目の前に彼「A」=リアルな現実の今の彼がいる。
あなたは時々リアルの彼「A」そのものを相手にしていない時がある。
「B」=イメージの産物・キオクを相手にしていたり、あなたの想像上、都合上の悪い存在や、思いのフィルター越しに彼を見ている。
「B」という自分の想像上のフィル―ター越しに見ているからホンモノノの彼「A」に出会っていないのです。
これってヤバい状態なのです。
禅の修行は、自分のセルフイメージをぶち壊し、リアルをダイレクトに観る力が養われます。
シンプルに、単純に、みてください、彼を。
もし本当に彼が浮気したらリアル彼氏の「A」が浮気したんですから別れればいいのです。
「B」を相手にあれこれ考え込んでもそれは独り相撲というもの。
如何に普段、自分がイメージの世界の住人になっていたか、いるかを今も自覚なさってください。
そして、そこから救われるために、そこに本当に不都合や❝問題❞を感じてみてください。
彼がどうだとかではなくて、自分のものの見方、普段現実を相手にしていないで、自分の思いばかりを最も優先させて来たという「問題がーる※」が観えてくるのではないでしょうか?
そういう自分とこそまず別れるべきです。
※ここで言う問題ガールとは、自分自身を一番苦しめる自分の相手への思いかた のことです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下様、温かい助言をありがとうございます。お礼が遅くなり申し訳ございません。頂いたお言葉から、わたしは今まで彼の「幻」を作り上げてきただけなのだと気づかされました。やっと、すべての謎が解かれたような気がして、心が軽やかになりました。今後彼に対してふと疑惑が湧きそうになったら、「いけない、いま私は彼の幻Bを見ているんだ。」と思うようにし、リアルな彼Aをしっかりと見つけていこうと心に誓いました。さらに、私の日頃の物の見方も反省しました。丹下様がおっしゃるように、私はいままでまわりの人や世の中を「イメージ」越しに見て、決めつけていた傾向があったように思います。これは、まさに大きな気づきでした。「リアル」を見ることの大切さを教えて下さり本当にありがとうございました。「問題ガール」と決別すべく、現実をしっかり見つめて生きていきます!

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