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悲しい

回答数回答 1
有り難し有り難し 9

先月8月26日に
相談させてもらいました ありがたいお言葉
感謝しています
娘が首吊りで亡くなった日から
まだ辛過ぎます
私は死んでしまったら無になって
娘も死んだら終わりで もう2度と会いにきてくれたりはないんでしょうか?
死んだら本当に娘が全てなくなるんでしょうか?
私の娘の思い出しかないんでしょうか?
完全に娘は無なんでしょうか?
自分が悪いんですけど
悲しくて生きて行くのに必死です
娘のいない人生が私には無です


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

倶会一処

さとお辛いと思います。

私も父を首吊り自殺でなくしたばかりです。

まだ納骨したばかりくらいです。

さぞお辛いことを思います。

人は死んだら、どうなるのでしょう?

http://www.higashihonganji.or.jp/sermon/shoshinge/shoshinge35.html

浄土真宗では、「ことごとく、よく有無の見を摧破せん」

といいます。

死んだあとも、この世界と同じように、霊魂のようなものがそのまま続いていくという考え方を、「有の邪見」といいます。
反対に、死んだら、いっさいなにも残らないという考え方を「無の邪見」といいます。

人がいままで生きてきたということは、いろいろな行為をし、いろいろな影響を周囲に与えます。
仏教用語で言うと「業」でしょうか。

死んでしまったら、その業が周囲に与えた影響がすべて消えてなくなる、ということはありえません。
そういう意味で、「無の邪見」は間違いなのです。

人間には「識」があります。
人間が、考えたり、感じたりするのは「識」があるからです。

その「識」というのは、常に、周囲のありとあらゆる出来事を受け取り、逆に発信している、相互作用的なものです。
なにかと無関係に単独に、実体的に不変の霊魂のようなものが存在する、という考え方を「有の邪見」といいますが、それも間違いです。

物事はすべて、相互に影響しあっているから、「識」がいっさい無になってしまうということはありえないと私は思います。

ただ、人間の識が、生まれる前にどうだったか?
死んだあとに識がどうなるか?

これを知っている人は誰もいません。

しかし、識が無になることは、物事の道理としてありえません。

浄土真宗では、「倶会一処」という言葉を使います。
この世界そのままの霊魂は存在しなくても、なんらかの形で、識は継続していくことでしょう。
そのとき、極楽浄土でまたお会いしましょう、という意味で、「倶会一処」といいます。

極楽浄土は、今生きているわれわれに想像がつくような形で、実体的に存在はしないでしょう。

しかし、死んだら虚無だ、もまた間違っています。

われわれには想像がつかないような形で、浄土は存在し、そこでまた会えることでしょう。

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有り難し
おきもち

浄土真宗、真宗大谷派です。
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質問者からのお礼

暖かいお言葉
ありがとうごさいます
毎日泣かない日はないけれど
今も変わらず娘を愛して供養します
ありがとうございました

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