漠然とした不安感について
これといった原因はないのですが、ふと漠然とした不安や怒りに襲われることがあります。
落ち着いてみるよう努力するのですが、性格上思い詰めてしまう傾向があるのかもしれません。
そのようなときに思い詰めるのを絶てるような何かよい言葉はないですか?
お坊さんからの回答 2件
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南無阿弥陀仏
私は浄土真宗ですので「南無阿弥陀仏」をオススメします。
南無阿弥陀仏は呪文ではありません。ですから南無阿弥陀仏を称えるから不安や怒りがなくなるわけではありません。
南無阿弥陀仏は真理が言葉となって私のところに届いているということです。阿弥陀仏という仏様には無量の光という意味と無量の寿(いのち)という意味があります。
つまり阿弥陀仏の救いは光の様にいついかなる時も私に届いているのです。いつでも、誰にも、どこにでも光が届いているからこそ私は私の姿を確認できます。
特に寂しい時、虚しい時、悲しい時、不安な時、怒っている時、苦しい時などはその光を感じるチャンスです。
阿弥陀様の救いの光は「お前をそのまま救うぞ」とはたらきかけます。不安は嫌だな、怒るのは嫌だなと苦しむ私に「そのままでいいぞ」と「不安な時は不安なままに」「怒った時は怒ったままに」の「ありのまま」の救いを差し伸べてくださいます。
不安をなくすのではなく、一緒に不安を感じてくださる救いです。いつ、いかなる時も「共にいる」ということです。
私が一声「南無阿弥陀仏」と称えるということは、
いつでも光は届いていたのにそれに気づかず、「不安は嫌だな、怒るのは嫌だな」と自ら苦しんでおりました。確かに「ありのまま」の救いの光は届いておりました
と感謝するということです。
不安のまま、怒りも抱えたままの私が「ありのまま」の救いの光に包まれていることに気づく時、その不安や怒りすらもあたたかい熱をもった光に感じられるかもしれません。
そのあたたかさは親の愛情にもたとえられます。親の愛情は絶対に我が子を見捨てませんよね。「よしよし、不安なのか」「よしよし、怒っているのか」と、どんな私でも「選び・嫌い・見捨てる」ということをしません。「そのまま・ありのまま」包み込みます。
不安や怒りで落ち着かない時はそんな阿弥陀様を想いながら称えてみてください。
もしかしたら南無阿弥陀仏という「ありのまま」の救いの光に包まれる時、「不安」や「怒り」が「ありのままの私でなかった」ということをも教わるのかもしれません。
頑張ろう神戸(イチローさんだけに)
>精進(はげみ)こそ不死の道
放逸(おこたり)こそは死の径(みち)なり
いそしみはげむ者は
死することなく
放逸にふける者は
生命(いのち)ありとも
すでに死せるにひとし
明らかに
この理(ことわり)を知りて
いそしみはげむ
賢(かしこ)き人らは
精進(はげみ)の中に
こころはよろこび
聖者(ひじり)の心境(さかい)に
こころはたのしむ
(友松円諦『法句経』21,22,講談社学術文庫679)
とあるお坊さんは学生のころ、何か分からない漠然とした何かに追いかけられているような焦燥感にさいなまれ、無我夢中で突っ走っていました。大学では夕方まで勉強し、バイトまで時間があれば図書館で勉強し、夜番でバイトに入り、終電まで残業し、帰宅して1〜数時間ゲームし、風呂に入ってマンガ読んで寝て、2限目からまた大学という生活だったそうです。
部活は1年生の夏までには辞めましたが、経営学、バイト、ゲーム、仏教学(編入学)、全方面に渡って全力で突っ走っていました。あぁ、そういえばSVAという曹洞宗系のボランティア団体で、絵本の訳語シールの枠線を切り除くバイトも一時していたようですし、Q&Aを始めたのも学生時代でした。
そのお坊さんは後に「ソシャゲやめたい」の問答に関わり、1回答当たりの平均有り難し数(たぶん)トップ(のハズ)の回答僧になったとさ、めでたしめでたし。
有り難し数は多い少いを問うものではないと思いますが、漠然とした不安も無闇に否定しなくていいんじゃないかな〜という例です。不安なら不安な分だけ頑張ればいいんです。禅寺には「無常迅速、生死事大」って不安を煽る文句が書かれています。不安で良いんです。不安な自分を嫌わないのです。
でも、怒りは余分かな。うん、余分です。お坊さんが怒りは余分だって言ってたから、怒るのは止めておきましょう。「短気は損気」です。誰も得をしないから怒らないんです。