寂しい気持ちをどうすればいいか解りません。
SNSで仲が良かった人が、他に友達をつくって私に話しかけてくれなくなりました。
話しかけるのは私の方からで、彼女からはありません。
新しい友達に取られたという意識が強く、嫉妬してしまいます。
1度寂しい気持ちをぶつけてしまいましたが、いつも通りに接してくれます。
寂しい気持ちをどうすればいいかわからず、毎日その人の事を考えては泣いてしまいます。
私は子供なのでしょうか?間違っているのでしょうか?
ここにいてもいいという自信がありません。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
私たちは、間違っていて、子供です
SNSというのは、気軽で手軽なところが良いのではないでしょうか。
特定の友達から過度に依存されたら、「重い」「めんどくさい」感じになってしまい、気軽さ・手軽さがなくなってしまう気もします。
仏教では、執着が悩み苦しみの原因と言われます。
また、心は無常であると言われます。
どんどん変化する他人の心を、自分の思いのままにすることは、無理です。
しかし、そうできるのではないかと幻想に執着してしまいますよね。
私達人間は、無常無我の真理がわかっていないから間違っているのです。
私達人間は、無理なものを無理とわからない聞き分けのない子供です。だから寂しくもなります。
一方、仏様は、それとは真逆の究極の大人なのです。
まぁでも、寂しくても死ぬことはありません。
しかし、思い悩むと死ぬこともあります。
寂しいけれど平気へっちゃら、寂しいけれどこれが人生。
寂しくても、大丈夫、あるがまま、お互い様。まだまだ仏様じゃないお子様だから。
SNSは本当に現実の会話だろうか
リアルに出会って直接対話。
それ以外は、ただの思いの上での互いのイメージ上の自己対話に等しいです。
SNSというツールを使ったコミュニケーション自体がそういう<薄い>ものです。
そういったものに依存せず、むしろこれを機に、一度離れて本当の現実に生きる事をおすすめいたします。
こういう文字だけのやり取りだって、私はあなたの顔も見れませんから、私にとっては薄いものです。
そういうレベルのコミュニケーションに真実味としての重きを置かないことです。
直接顔も見れない中でのコミュニケーションは妄想を生みやすいものです。
禅宗では面授という言葉があります。
直接対話以外は、互いに誤解を生むニセモノだと思うくらいで丁度いいと思います。