漠然と心が満たされない対処法をお教えて下さい
今いる場所に感謝しようとしたり幸せだと思い込ませようとしていてる自分が虚しくなったり、人と比較して自分が惨めに感じた時どのように気持ちを切り替えたら良いかアドバイス頂きたいです。
一般的に可もなく不可もなく恵まれた環境で生活しているという自覚はあります。それでも感謝しきれず満たされていない事に自己嫌悪になる時があります。
沢山の質問の中、恐縮ですがお知恵をお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
ほんに今までしらなんだ
感じたことは気持ちの切り替えでどうにもなりません。感じたことが気持ちなのですから。
有り難いと思ってもないものを有り難いとは感じられませんし、幸せだと感じていないのなら幸せな気持ちにはなれません。
それでよいのです。
ただ、感じられないから有り難くないのか、幸せではないのかといったらそれはまた違います。
問題は感じられない気持ちにあるのではなく、何が有り難いのか、何が幸せなのかを「知らない」ということにあります。
そして何がありがたいのか、何が幸せなのかを知るためには真実に触れる必要があります。私たちは仏法という真実にそれを教えてもらいますが、仏法とは自己を学ぶことでありますので、何も本を読んだりお話を聞いたりというだけではなく、日々の生活を丁寧に生きていく中で見えてくることもあろうかと存じます。
ですので今は感じられない自分を責める必要はありません。知らないのですから感じられなくて当然なのです。
もっとも、「感謝しきれず満たされていない事に自己嫌悪」するということは自分の力で感謝もできるし満たされることができると思っているからそうなるのです。できるはずなのにできていないと思うから虚しくなる、悲しくなる。
厳しい言葉を使うと、そこには自己嫌悪と言う形をとった自己肯定という傲慢さがあるのかもしれません。
人間にはどこまでも自分を立て、自分の都合しか考えられない傲慢さがある。それを浄土真宗の宗祖親鸞聖人は「罪悪深重」と言い当てられました。
仏法に我が身を照らされると、自分の力でなんでもできると思いとても感謝などできない自分の姿があぶりだされます。
そこに自己反省をこえた絶対的な自己否定があり、なおかつそんな自分をも包んで離さない温かい世界があることに目覚め、本当の感謝が生まれるのです。有り難さに気がつくのです。
「気がつく」ということはこれまでもそうだったのに、今まで自分は知らなかったということです。
あなたがどう感じていようが、目の前の世界は感謝すべき温かい世界なのだという事実を知り、今はただ安心して迷いながら生きてください。
「よくよくお慈悲を聞いてみりゃ 助くる弥陀が手をさげて
任せてくれよの仰せとは ほんに今まで知らなんだ 」
伊藤康善 編著 「信心数え歌」より
満たされない心にすら感謝できる日がきっと来ることでしょう。
質問者からのお礼
丁寧にご返答頂きありがとうございます。
なるほどと関心致しました。気持ちの持ちようで幸せになれると思い込んでいました。
今はまだ目の前の世界は感謝すべき暖かい世界だという事を認識出来ずにいます。
ゆっくり真実を感じて生きたいと思います。不安や迷いもこれで良いのかなと感じ、気持ちが楽になりました。ありがとうございます。