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分身

回答数回答 1
有り難し有り難し 16

手が足りない。もっと働かないといけないのに。もっともっと。ま。100人、分身ほしい。出来る女になりたい。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

そんなに頑張ったって幸せになれるとは限らない

自分の中ではこうしたら私は幸せになれるだろうと思ってやっておられますが、その結果どうでしたでしょうか。
いままでも、沢山頑張ってきた。
でも、頑張れが、かならず幸せになれるでしょうか。
誰かの何かの評価を得ることは幸せには直結していない様に私は感じます。
それより、今の一呼吸に親しむようにしてみてください。
頭の中の遠い日のいつかの幸せよりも、自分のいま、そこにしかない一呼吸に安らかになる子です。
この呼吸を早めようと思っても体は言う事を聞いてくれない。
この呼吸があなたの意思とは無関係に、命として働いているからです。
だから、私ども人間の本当の主人公は、この命の側であって、あなたの自分の「わたしはこうしたい」「わたしはこうなったらいいと思う」という自我が主人公ではないのです。
自分のわたしわたしした自分が主人公だと思っている人は不幸なのです。
じっさい、不幸になっています。
車のブレーキをアクセルだと思って踏んでも前には進めません。
それは、私はブレーキがアクセルだと思う、と思って踏んでいるようなものです。
私がこうすれば、幸せになれるはずだ、幸せになれるはずだ、だから私はもっと○○しなくちゃいけないんだ、と思って、それをやってみた結果、幸せになれていなければ、その方法は間違っているのです。
周りの意見ではなく、
自分の本心に忠実に生きてみてくだし。
貴女の身心が悲鳴を上げている、苦しんでいるなら、その方法は薬の飲み方としても量を間違えてしまっているようなものです。
本当はもっと、自分のキメツケごとがない方が人間、大らかになれるのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。

おおらかにやりたいけどすぐイラつきます。直したいです。

お返事ありがとうございます。

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