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自分はだめだと悲しくなります

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有り難し有り難し 17

最近仕事で、怒っている相手、不満をぶつけてくる相手と対応することがあります。

そのようなとき怖さもあって相手に対して、自分の考えをうまくまとめられなかったりします。

でもひょっとしたら、怒っている人相手だけではなく、普通の会議でも気の利いた発言をしたり、的を得た言葉で説明することができてないのかもしれません。

賢い対応をしているな、すごい仕切り方をされるな、知識も説明の仕方も全然及ばないな、と思う人が何人かいて、いつも感服するとともに自分のダメさ加減に悲しくなります。

どうしていけば、いいのでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

気の利いたことより、ハートが大事かと思います。

挨拶でさえ、気の利いた挨拶は出来たり、できなかったりするもんです。
気の利いた受け答えより、誠実な対応を心がけてください。
スキルより♡ハートです。
無駄に文字が多くても伝わらないものです。
多くを語るより、相手のこうしたいという1つを受け止めて、その上での伝えるべき事1つをお伝えするだけで「伝わる」でしょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

早速お返事をいただき、感謝しております。

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