hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

自分が怖い

回答数回答 1
有り難し有り難し 15

私は22歳大学生です。

最近自分が怖いです。

一か月前私の祖父が実家で倒れ、今も病院で入院しています。

そんな状況なのに、自分は全く心配になりません。昔から遊園地やいろんなところに連れて行ってくれて可愛がってくれた祖父なのに、自分はまったく動揺しません。もちろん祖父のことは大好きだし、今までお盆やお正月は遊びに行き、散々お世話になっている祖父なのに、まったく動揺しないんです。幼稚園児の頃は「おじいちゃんおばあちゃんが死んでしまったら」と考えただけで涙が出るような人間でした。自分が心配しない理由には「たぶん無事だろう」という根拠がない考えがあるからだと思います。

私はこんな自分が嫌です。

「今まで散々お世話になってきたのに、何でこうも自分は祖父を心配しないんだろう。」と自分が正常な人間なのか疑います。「大切な人が自分の前から消えたとしても、自分は全く悲しみの感情を抱かないのではないか」と心配になります。そのくせして、失恋やちょっとしたことで落ち込んだりしている自分がいます。自分のこと以外考えていないのかもしれません。そんな自分を最低に思います。昔からオリンピックなどで日本の選手が金メダルを取っても何も感じませんでした。喜びの感情が湧きませんでした。自分の好きなこと楽しいこともよくわかりません。人の不幸を心の中で喜ぶ自分もいます。もちろん、こんな自分が出てきたときは自分を心の中で攻めます。

しかし、心配するって自然のことだと思うので、意図的に心配しようと思うことはおかしいことなのではないかと思います。

こういうとき、どういう行動や思考をとれば正しいのでしょうか。

今度、神社に祖父の無事を拝みに行こうと思います。

自分でも何が言いたいのかわからない文章になってしまったのでニュアンスだけでもわかってもらえれば幸いです。

長文失礼いたします。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

おじいちゃんを探しに行けば気づく

大丈夫だよ。
この世に死んだ人なんていません。
おじいちゃんも死にはしません。
近所を回ったり友人に聴いて、ずっと生き続けているおじいちゃんを探してみましょう。
すると、この世にずっと生き続けている人なんていないということが分かります。
そうです。人はいつか死にます。

でも大丈夫。
おじいちゃんと同じ人はきっとどこかに居るはずです。
高齢者施設やお年寄りの集まる場所へいってあなたのおじいちゃんを探しましょう。
きっと、どこかに同じ人がいるでしょう。
同じ人が見つかるまで探してみてください。
やがて、そんな人いるわけないと悟り、あなたと血のつながった祖父は天地にただ一人だと悟るでしょう。おいうことが分かるでしょう。
そうです。あなたのおじいちゃんは今、危険な状態です。
目を覚ましてください。
血のつながりを感じるには血の通った人間になるよりほかありません。
血の通った人間になるためには、人間の世界の真実に目を向けることです。
この世の真実はあなたもおじいちゃんも私も寿命は今日の事一呼吸。
今おじいちゃんは、お孫さんに会いたがっていると思います。
自分がこの世に生まれて、自分の血の通った人間が元気にこの世で生きていって、新たな命を宿していってくれる存在を見せて安心させてあげてください。これはあなたのお父さん、お母さんでは絶対にできないことです。居るだけでもいいのです。ギュッとしてあげてください。
意識がハッキリしていなかったとしてもちゃんと伝わります。
行ってあげてください。居てあげてください

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ