人生について
お坊さんは自分らしく生きる生き方や楽に生きる方法を解いていらっしゃると思います。生きている上でおかしいとかなぜという疑問が湧いてくると思うのですが。そこを突き詰めるとどうしても悲観的な真実というかリアルに突き当たるのかと思いまして。そこは理解をもって寛容に生きていらっしゃるのですか。怒りが湧いたり疲れたりしませんか。そこも受け止めコントロールというか多少の忍耐ありきでらしく楽に生きていらっしゃいますか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
不可思議
あいすさんこんにちは!
私は一切は『不可思議』であると思います。
お釈迦さまも数々のお経さんの中で
『不可思議』ということをおっしゃられています。
『不可思議』は
人間の頭で思ったり、考えたり
議論したりできないもの。
という意味です。
科学の世界では宇宙の始まりを『ビッグバン』と呼び
思ったり、考えたり、議論したりしますが
『宇宙』という言葉も
『ビッグバン』という言葉も
人間がそれらを思議(思ったり、考えたり、議論したり)するために名付けたものにすぎません。
『宇宙』や『ビッグバン』など名付けてわかったつもりになっていますが、
ビッグバンの前は?宇宙に果てはあるの?
こんなことを思議していったところでわかりえる事なのでしょうか?
無限の疑問が湧くばかりでしょう。
太陽系の小さな星の小さな国に少しの命をいただいて生きている我々人間に
わかりえるのでしょうか?
もしわかりえると思うならば、おこがましいと言えると思います。
この不可思議の中に生きている私たち。
不可思議の宇宙であり、不可思議の地球であり、不可思議のいのちであり、不可思議の出会い。であるのだと思います。
一切は不可思議なんです。
それを思議しては、勝手に悩み苦しむ私たちであると思います。
私は浄土宗の人間です。
だから阿弥陀如来に身も心も放ち、ゆだねていく教えです。
すべては不可思議である。不可思議であるからこそ私は自分の小さな小さな思議に頼らず南無阿弥陀仏と口に出し、不可思議なる阿弥陀如来の力にゆだねています。
禅宗のお方なら
自分の思議をはさまず、不可思議なるこの世を、この私をそのままに見つめることで苦から解き放たれる。
日蓮宗のお方なら
お題目(南無妙法蓮華経)を称えて、偉大なお釈迦さまの尊いおしえにこの身も、心もゆだねていこう。
(禅宗のお方、日蓮宗のお方、理解が間違っていたら申し訳ありません。)
いずれも仏法です。
いずれも不可思議である。ということが大前提なのです。
思ったり、考えたり、議論したりしてわかるものではないのです。
かえってそういう
小さな自己、自分の『思議』を手放していき、ゆだねていける
ところに仏法の救いはあります。
煩悩即菩提
あいすさんは20代、社会の色々な側面が見えてきて、きっとやり場のない怒りや、色々な感情が心の中に渦巻いているのでしょうね^^
私も20代~30代の頃は、けっこうとんがってた人間だったと思います。
「それは違うんじゃないか」と思ったら、目上の人にでも噛みついてみたり、ムカツク相手に、平気で暴言を吐いて周囲を凍り付かせる、なんてこともしょっちゅうでした。
今思うと、なんてバカヤロ-だと、後悔しています。
穴があったら入りたい気持ちです。
煩悩即菩提という言葉は、大乗仏教の基本的な概念です。
悩み(煩悩)があるからこそ、それが悟り(菩提)につながる、煩悩も菩提も、どちらも人間の本性なんだという意味があります。
あいすさんも、いろいろな悩み、怒り、迷いがあるでしょうが、それらを真っ直ぐ見つめ、何より自分の頭でよく考えることが大事です。
考えて、考えて、考え抜きましょう。
そして時々は何も考えず、頭をカラッポにして遊びましょう(笑)
そうやって、一日、一日をしっかり生きていれば、きっと「菩提」が何か、見えてくるのではと思います。
人生と宗教の関係についての一考察
こんにちはー!質問について「質問者からの有り難し」欄での言及も汲んで、少々お話しさせていただきます。
人生とは、「人間という機能」を通して「宇宙の一部である人間としての在り方」を解釈・表現することです。
そして、宗教とは、人間による解釈(=人生の表現)を映す鏡のようなものです。
向かい合った人間が望むものを、そのまま映す鏡です。
しかし、いかなる場合であっても、鏡に映っている(と思っている)姿は、頭の中で生じた個人的な認識の表出に過ぎません。
「鏡に映っている像が、鏡そのものではない」ということを理解し、その先にある鏡本体を知覚したとき、人間は宗教という名の鏡やそこに映る像から、自由になってゆきます。
逆説的ですが、これこそが、宗教の根本的な機能です。
仏教もキリスト教もイスラム教も、あなたが信じている宇宙の法則の考え方も、語り口は違えども、みな同じ「鏡」です。本質は同等です。
世の中において、「宗教はごまかしや気休めだ」と評されるのは、そのような姿で宗教を求める人間、あるいはそれに応じる人間、もしくはその両者が、踊らされている姿を、鏡が映しているだけなのかもしれませんね。
そう、人生と宗教の関係ってこんな感じです。
以上、参考になれば幸いです。
合掌
質問者からのお礼
ありがとうございました。
世の中はエネルギーで動いていて宇宙の法則があって世の中がなりたっていると思います。人間はdnaの乗り物だと思います。何者かによる必然か物質的な偶然か宇宙誕生し生命体は今の今まで育まれてきた歴史の記憶はdnaに刻まれていると思います。常に本質をみて自分に問い考え言葉ではない考えも含め、深めていけば一片の矛盾なく疑問なく完全に自己理解して。楽に全てそうなるべくしてなるよう生きられるのかなと。質問は悟りや理解とはを引き出せたらと思い質問しました。宗教は拠り所のようなもので妥協や諦めをうまくオブラートに包んで化身化しているようなもののような気がしました。こういう考えはばちあたりと捉えられるかもしれませんがそもそも痛いところを突かれないよう化身化されたのかと思います。自分の無知や弱さを隠すためなのかなと。こういう考えって宗教家の人からしたらどうなんでしょう。返信ありがとうございました。