死ぬって選択はそんなに『悪』なのでしょうか?
うつ病になって色んな事を休むようになりどんどん今まで積み上げてきたものがこわれてます。
学生なので、バイトをしてましたがバイト先に戻るのもすごく怖いです。
友人関係もどんな風に距離を取っていいのかわからなくなってます。新しい関係を持つのも、今までに積み上げてきたのが崩壊してるのもあってどう築いていけばいいかわかりません。
大学生活も残り半年で学校に行かなくなりました。来年から院進学予定ですが、来年からの自分の状況や家族の状況を見てるとやるべき事がまるで裸足で剣山の道を歩けと言われてような気にしかなりません。
私は正直死にたい気持ちでいっぱいです。この状況から解放される手段が他にわからないだけなのかもしれません。
自分が人間の底辺に生きてる醜いゴミのような存在じゃないかって思うことも多々あります。
こんな私が、生きていても剣山の道を歩くような状況になら私でも死んじゃダメだと言われます。
自分の中では親が悲しむからダメだという理由でなんとか抑えてらような状態です。今俺が亡くなったら弟が困るからダメだとかで必死に抑えています。
でもこんな状況でも生きていないといけないんでしょうか?
希望や楽しみが見出せない場所に生きなきゃいけないんでしょうか?
器用貧乏、家族は母と弟のみ、親戚関係はかなり疎遠、彼女なし、よく組織関係では調整役や歯どめ役になる、優しさで損をするタイプとよく言われる、人に隠し事はあまりしないがけど自分の考えや感情はだいぶ伏せてる、1人の責任でどうにかしようとする、大学院を休学中 今現在鬱病はだいぶ回復(完治しきってるかは不明) 家族の柱なポジション 母へはお金の援助をしています。 休学して働き学費を貯める予定だったが、 仕事の忙しさにより院に戻ったときの勉強がうまくできなくなった事をきっかけに、「果たして本当に院に進学したいのか?」と思い始めてる
自分の苦しみをどうしていいかわからなくなる。他人の環境がすごく羨ましくなる
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
返信
剣山がそびえ立っているのを見れば裸足のあなたは呆然と立ちすくむだけです。
しかし、剣山の目の前の針一本一本をよくよく分析してみると、一本だけならなんとか横から踏んで針を曲げることができるものです。
針一本曲げて数ミリ前進する、また、針一本曲げて数ミリ前進する、そのように少しずつ少しずつ前進してみましょう。
返信
字数制限の為、前述の一部を削除しました。
質問の意図を誤解してすいませんでした。
なぜ剣山を歩まねばならないか、ですね。
この世は因果応報、諸法無我ですから、やはり様々な要因があるのだと思います。
親の収入が少ないために学費を自ら稼がなければならない、親や弟さんの面倒を見なければならない、というような避け難いどうしようもない要因が先ずありますね。
また、高卒で就職せずに大学へ進学したこと、4年で卒業して就職し早く収入を得るのではなく、更に院への進学を選んだこと、弟さんに学費は自分で稼いでくれあるいは働いてくれと頼めないこと、その他にも自らを剣山に追い込んでいる要因があるのかもしれません。思い当たることがありませんか。
あなたは責任感が強そうな感じなので、自らを追い込みがちなのではないでしょうか。
せっかく学費を払っているのですから、大学には行った方がいいと思います。学ぶべき事がたくさんあるのではないでしょうか。また、来年度が難しいなら、一旦休学して学費を稼ぐことに専念してはどうでしょうか。
将来のことも含めて大学の先生や就職担当の先生と今後のことをよく相談してみましょう。
親や弟さんにも、今のあなたの状況を正直にちゃんとお話しください。
なお、死を選ぶことは悪いことではありません。生きている時にしっかり南無阿弥陀仏と声に出して唱え、極楽浄土へ行くことを願えば、どのような死因であれ命尽きると阿弥陀仏によって極楽浄土に往生すると浄土宗では信仰しているからです。
宗祖法然上人は生きている間にできるだけたくさん念仏を唱えなさいと言いました。一言唱えれば往生できる、たくさん唱えれば往生がより確実になる、という事です。
死がよぎる時は、例えば1時間、心ゆくまで南無阿弥陀仏と声に出して唱えてください。場所的に声に出して唱えにくいなら、近くの浄土宗あるいは浄土真宗寺院に行けば、声に出して唱えることができると思います。
念仏を唱える為にも生きて欲しいと思います。
自分が信じている価値観を知ること
ジェス様
こんにちは。拝見させていただきました。
いろいろなものに縛られている中で希望や楽しみが見いだせない状況にあるのですね。私の勝手な考えですが心の奥底にため込んだ感情があるのではないでしょうか。ひょっとすると憎い気持ちを押し殺していませんか。自分の中で見ないようにしてきた「わかってほしい」「受け入れてほしい」「愛されたい」「認められたい」という気持ちが身体と心の苦しさとなってあなた自身に気づかせようとサインを出しているのだと思います。特に身近な関係(家族など)の中に受け入れてもらいえない感情があるのではないかなと思います。
そのことで自身の価値がないのだと「思い込み」こうする「べき」こうしな「ければ」という思考にとらわれてしまっている。
仏教は「主観」にとらわれた自分に気づいていく教えです。つまり自分が信じ込んでしまった価値観や人生観に気づくということです。例えば成長する中でまわりの大人に「こうあるべき」という価値観を押しつけられた事はありませんか。あるいは、失礼な言い方になりますが両親が心の不安を持っており「他人をうけいれる余裕」がなく要求ばかりになったり価値がないように「思わされた」りしたことはないでしょうか。そういった大人の価値観を「信じてしまった」のです。楽に生きている人というのは希望や楽しみを持っているわけではないです。希望はあってもなくてもいい、楽しみもあってもなくてもいいと思っている人なのです。こうでなければ幸せではないと決めていない。
不安に襲われた時は深呼吸3回。そして呼吸を意識しながら生活してみてください。
「私は駄目な人間だ-!と思っているようです」と「と思っているようです」とつけて言葉に出す。あるいは「死にたい-!まぁいっか」と声にだす。
ここまでの生活は本当に苦しかったことだと思います。その中でもあなたは生きてきた。やってきた。それはすごいことです。自分自身に「つからったよなぁよくやってきたよなぁ」と声をかけてあげてくださいね。
人は生きているというただそれだけで役割を果たしていて立派なのですよ。
応援しております。合掌
質問者からのお礼
わざわざ回答ありがとうございます。
正直な感想を言わせてもらうと、もっと質問の意図を読み取っていただきたかったです。
剣山の道を歩く手段自体は探せばあるでしょう。ただ、私に取っては剣山を歩ける事はさして重要ではないのです。「剣山の道をどうして模索しなければならないのか」なのです。
そこの答えが見えない回答なので、私にとっては首がまた締まる思いです