怒れるようになりたい、
謙虚に
ニコニコと生きようと
回答があって
疑問があるので、質問させてください。
回答はとってもありがたかったです。
感謝してます。嬉しかったです。
ただ疑問があるだけです。
わたしは
いつもニコニコ生きているのは
何がいいのかわかりません。
それは
まるで
ドアマットみたいに
なんど踏んづけられても、
なんでも受け入れなきゃみたいな
感じがして
とても苦しいです。
わたしはドアマットじゃないので、
嫌なものは
嫌だって怒りたいです。
でも、
わたしは怒ることがニガテです。
家に帰って、ものすごくやりきれなくなります、
こんなに苦しいなら、
変にニコニコするくらいなら、
人に嫌われた方がマシだな
と、
おもって、
あまりそっけない態度をしていると、
相手の気持ちを考えよう、
ニコニコしている人は人に好かれるよとか
言われてとても苦しいです。
わたしは、ドアマットになれません。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
凡夫だからさ
ブッダの言葉に
「怒らないことによって怒りにうち勝て。善いことによって悪いことにうち勝て。わかち合うことによって物惜しみにうち勝て。真実によって虚言の人にうち勝て。」ダンマパダ223(中村元訳)
とあります。やはり怒りは煩悩です。煩悩を抱えた存在を凡夫(ぼんぶ)と言います。
凡夫について浄土真宗の宗祖である親鸞聖人は
「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず」
と言います。死ぬまで怒っているのが人間だっていう話です。
で、どうするか?
あなたがドアマットのように踏んづけられた時、あなたは悲しいです。怒りの心も起こります。それでも怒らずにニコニコ耐えたとします。本当は傷ついていますが、心の持ち様で持ちこたえたとします。しかしこれで「良し」となるのはあなた一人です。
踏んづけた人は踏んづける事が悪いと気づいていません。また違う人を踏んづけます。踏んづけながら自分も傷ついています。あなたの次以降に踏んづけられる人もあなたと同じように傷つきます。怒りに耐える心の持ち様を知らない場合、この人は倒れてしまいます。
ニコニコするだけでは結果的に新たな被害者を生みます。もちろん最初に踏まれた本人もやはり傷ついているでしょう。
ブッダが語るのは「怒るな」だけではありません。「真実によって虚言の人にうち勝て」と言います。
真実=正しい事によってみんなで救われなさいって話です。さあ、これが問題です。真実=正しい事って何?です。
親鸞聖人は
「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろこずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきにただ念仏のみぞまことにておわします」
(「人間にもこの世にも正しいことなんかねえ!正しいのは念仏だけだ!」筆者超訳)
と言います。私らに正しいことはわからんのです。だから仏を念ずる。仏に正しい事を教えてもらうのです。正しい事がわからない私が「こうじゃないかな?」と伝える姿勢で大事なものが和顔愛語(柔らかい表情と穏やかな言葉)です。
つまり、ニコニコできなくたって、怒ったって安心してください。凡夫だからこそ一緒に正しい教えを聞いて考えていきましょう、穏やかに伝えあいましょう、という話なのです。
まずはminiminiさんらしく!
miniminiさん
初めまして
だてりゅうほうと申します。
質問をたくさんして
偉い人からアドバイスをもらうと迷いますよね〜〜〜
凄くわかります。
僕もずっっと答えを外に求めていたので・・・。
先に言っておきますが
miniminiさんの過去のすべての質問の回答の
その全てが《そのお坊さんにとっての正解》なんです。
ですのでminiminiさんが参考にされるのには
とても良いことでしょう。
けどそから生まれた今日の問いですよね。
私にはminiminiさんの言葉がこう聞こえました。
「もぉ私らしくさせて」
って。
miniminiさんの文章に書いてありますよ。
>>わたしは怒ることがニガテです。
家に帰って、ものすごくやりきれなくなります、
こんなに苦しいなら、
変にニコニコするくらいなら、
人に嫌われた方がマシだな
と、おもって、・・・
これで良いんです。
怒るのが苦手で、変にニコニコなんて出来ないです。
良いじゃないですか!
怒るの苦手でも
私はドアマットのようにはなれない!!
っていう感情は怒りでは無いですか??
出せてます出せてます。
それで良いんですよ。
変にニコニコ出来ない。
けど、小動物見たり、赤ちゃん見たり
何かしら自然にニコニコしてしまうことってあるでしょ?
それで良いんですよ。
世間には
たくさんの良い話
参考にするべき話
知っておくだけで人生を楽に生きられる話
いーーーーーーーっぱいあります。
けど
全部の話を自分の人生に取り込むなんて不可能です。
だって、人それぞれに違う人生があるんだから。
大事なことは
新しく学んだ知識を
どのように自分自身に当てはめて
使いこなせるようになるか
つまり
知識を知恵に変えられるかです。
そのためには
まずminiminiさん自身が
miniminiさん自身のことを知り
そしてその後で
どの話しを知識として取り込むのが
自分の生き方に合っているかを考えるんです。
過去の質問の参考にもなるであろう
動画をYouTubeでアップしています。
ぜひ参考にして見てください^^
だてりゅうほう
ドアマットには、ならないで!
以前、お坊さまが回答された「謙虚にニコニコ生きよう!」ですが、、
それは、わかりやすく表現されたのと同時に、卑屈にならず有益な人生を共に歩もうではないか、と伝えたかった。
そう私は解釈しております。
「謙虚にニコニコ生きる」ということを、、、
人に踏みまくられ耐える、ドアマットに例えておられますが・・・
でも、これは「謙虚」ではなく「卑屈」もしくはドMです。
だって人に踏んづけられても、腹が立ってもニコニコしてれるわけでしょ(笑)
謙虚なマットは少し違います。
踏んづけられることに腹が立つのは卑屈なマットと同じですが、、
怒ったりもしません。
なぜなら、他人がどうとかではなく、「踏まれる」のが イヤなのは自分の問題です。
他者に怒るという事は、自分の一方的な価値観を他者にぶつけるという事になります。
他者なんてどうしたって変えることなどできない。
自分が変わるしかないんです。
彼らは努力することにより、環境を変えることが可能であることを知っています。
土足で踏まれるのがイヤなら、素足で踏まれる、じゅうたんへとキャリアアップをはかるでしょう。
>嫌なものは嫌だって怒りたいです。
そりゃあ主張したいでしょう。
言いたいこと全部吐き出せたら、どんだけ胸がスッとするか。
>でも、 わたしは怒ることがニガテです。
それでいい。ニガテで結構!怒りの感情は、人と人を引き離します。
腹が立ったから怒りを表現するというのは、決して正解ではありませんよ。
あるプロレスラーの話をしますね。
彼は飲み屋さんで、足を踏まれたことに怒り、相手と口論から乱闘に発展しました。
結果、腹を刺され病院に運ばれましたが、七日後亡くなられました。
「おれは死にたくない」が最期の言葉だったそうです。
という事は、この場合ニコニコして、相手を許すことが彼にとって「有益な選択肢」だったんでしょうね。
このような視点で考えると「ニコニコ生きましょう」と回答されたお坊様のお言葉が、私は有り難く感じられます。
他者に対する態度を気にしたり、他者の気持ちを考えるよりも、まずは自分が自律的にどのような行動を選択するかがminiminさんの課題でしょう。