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善く生きるには。

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有り難し有り難し 16

はじめまして。
私は某国立大学に通う大学生です。主に西洋哲学と言語学を勉強しております。
よろしくお願いします。

人には、怒り、むかつき、嫉妬、悪戯心、など様々な負・悪の感情があるかと思います。時にはそんな感情が体や口を出て、理由もなく物や人を傷つけたり悲しませる例も少なからずあります。

たとえば病に苦しむ人を嘲ったり、無為に他人を罵ったり、煽り運転や信号無視、列を乱したり……など、生活の上で明らかに「よくない」行動全般と、その結果のことです。

私はそのような行いをする"悪い"人間になるのが嫌で、特に高校生以来"善い"人間になろうと、つとめてそれらを行わないよう生きてきました。

他人を尊重し、多くの考えを深め、ルールは守り、条件に反しない限りで遊び、生きてきました。
負・悪の感情を抑え、コントロールし、あわよくばそれを善い方向へと導くのが真の意味でおとなな人間であると信じているからです。

しかしながら、ふと、思うのです。
多くの人々は"悪い"人間なのではないかと。そしてそれこそが人の本来であり、圧倒的多数ではないのかと。

東京や大阪など都会に行けば、誰もが小さな信号なら無視していますし、運転は乱暴、振る舞いも横暴な人が多いです。またインターネット上では傷つけ合いや意味不明な罵倒が横行しており、悪い例には枚挙に暇がありません。テレビや雑誌でさえ無実の人をなじったり、不要なプライベートを暴いたりと、倫理観を疑うようなことさえ普通にします。

そういう光景を目にした時。たとえば、皆が赤信号を前に渡っている中、自分だけがただぼおっと誰も守らない信号の前に突っ立っているのが、ひどく馬鹿馬鹿しく思えてなりません。
我慢して寡黙を通している中、べらべらと楽しそうに悪口や悪評を流す人を前に、自分も乗っかりたくなってしまいます。

誰もが考えない感情のコントロールやルールを自分だけがやたらと直視し、善い人間になりたいと思うことすら、むしろそれ自体が社会のしくみを無視した悪い行いにすら思えてくるのです。
そもそもそれは”善い”ですらないのかもしれません。

悪い面への憧憬にも似た感情を殺し、いままでの善の信念を通して生きていくには一体、どんなふうに心を持てば良いのでしょうか。

何か良いアドバイスをいただければ幸いです。
長くなってしまいましたが、よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

上善は水の如し 最上の善より善なるは禅なり

善悪ちゅうのは二見です。ものを両側面からみたものの眺め。
そのものが悪いという事が言い得るなら、良い面だってあるという事。
チョコはウマいが虫歯になる、ニキビができる。
知らずに食っとるときゃぁ善も悪もない。
ものの真相を知ることが禅です。
ヨイワルイの思いのカバーは理屈です。そのカバーをDISして是非や善悪に染まる前の姿を発見することがDISカバーで発見とは言い得て妙なり。
あなたはまだ、ものを眺めている時にラベルを優先的に自分で貼りつけた世界を真実の世界だと思ってしまっている。わたしゃ、横断歩道なんか車とオマワリがいなけりゃわたります。ダメデショ
人間が決めた法は人間がその法を認知しなければその法は機能しません。
クックパッド通りに作って味が濃ければ変えればいい。
モノを知らん人間は人の決めたルール通り、レシピ通りで実部の料理が作られている現実の現場、今をみていない。
先日カラスがハトをくっとった。良いか悪いか。
カラスがアンタなら食わなきゃいかん。イーオンで子供がマックのポテトをうまそうに食べとった。身体に悪そうだから親としては食べさせたくない親もいる。されどマックよりケンタは高い。その近くで遊び場があって子供が遊びたいと駄々をこねる。料金がとても高い。イーオンなのに良イーオンなのか悪イーオンなのか。答えてみてください。善悪とは何か。
時と場所と場合によって自在に変わる。変わるという事はアンタが変えなきゃいかん。それが法を知るという事。ものに使われるのではなくモノを使える、転じる、よりよくする生き方になる。
最初から良イーオン、悪イーオンなんて決まっているものはない。
早起きしたって夜はすぐに眠くなる。
早寝早起きより、遅寝ギリ起きの方が、職種によっては仕事の効率が良かったりする。
水のよく変化する事、湯となり、氷となり、雨、キリ、みぞれ、あられ、⛄、川、湖、海となる。
寒い時は風呂になり、アツい時は冷たいドリンクになり、熱出せば氷枕にもなる。
水とはあんたの事。
カッチカチの氷頭を氷解してどんなすき間にも入っていけるようになりましょう。
水に良い悪いはありますか。
朝からかき氷食べたらどうなりまっか。
水(自己)の真相を観ずして自己の想念を先んじていないか。
ゆえに最上の善は善悪の善にあらず。「禅」は善悪にわたる以前の事実を示す。

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有り難し
おきもち

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今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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