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目の前のことに集中すると過去の兄が僕を殴ります。

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オカルトなタイトルで申し訳ありません。
しかし僕はこの悩みどうしても解決したいのです。

今僕は22歳、4つ上の兄がいます。
兄が一人暮らしをする18歳の頃まで、兄から言葉と肉体的な暴力を日々受けていました。
年を重ねるに連れ頻度は少なくなり言葉の暴力の比率が上がりました。

両親は小学校低学年の頃で暴力を振るわなくなり良いお兄ちゃんに育ったと思い込んでいます。なぜなら、被害を訴えると兄から「告げ口した」と攻められより強力な暴力を受ける(手で首を絞められ気を失いかけると放し、数十秒後にまた首を絞める等)ので言えず、また日頃、兄と比較しいかに僕が愚かなのかと説教をよくされます(兄は結婚もし一部上場企業にも所属し世間体が良いです)。
兄から離れて4年後の現在も言うことができません。

タイトルの問題についてです。
僕は幼いときから「どんくさい」という理由で兄から暴力を振るわれていました。
過程が不完全でもいかに目標を短時間で達成するかが求められていました。
例えば、布団を片付けている際に押し入れに入り易いようにコンパクトに畳もうとしていると「遅い!どんくさい!カス!」と大声で叫ばれながら頭部に飛び膝蹴りを喰らわせられました。
外出時でもスーパーでお菓子を選んでいると髪を掴まれ地面に叩き付けられたり、兄が外で遊びほうけるようになる大学生になるまで(僕が中3)高頻度で被害に合っていました。両親にバレたらいけないので「転んだ」とか理由をつけていました。

現在、何をするに至っても(この文章を書き込んでいる今でも)そばに兄がいないのに「どんくさい、カス、はよしろや」と言う声が響き渡り、頭部を強打されたときの一瞬「ガーン」と脳が振動する感覚が蘇ります。
それを回避するため、不確実でもいち早く目標を達成することを求めます。
効率的かつ確実ならば良いですがそんなことはなく、結果中抜けだらけになり失敗することが多いです。それを分かっていてもあの時の記憶から逃れられるのならばとこちらを優先してしまいます。

この記憶に打ち勝つか、または制御できるようになりたいです。
無理矢理我慢すると衝動的に大声で叫んだり物を投げたり頭を机に叩きつけ自分を痛めつけたりしてしまいます。

解決方法はありますでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

足音を聞くだけでオトンが僕を叱りますが実際はそこにいません

ウチのカミナリオトンはよく怒鳴り声をあげました。(゜o゜)
廊下はがたがた音のする古い作りなので、足音を聞くだけでそれが家族のだれであるかがわかります。
ゲームの置いてあったゲームの部屋と呼ばれていた法衣なども置かれていた部屋にカミナリオトンが足音共にやってくると子供のころ怒鳴られた記憶がよみがえること常の如し。(´-`).。oO
ところが、別にそれは本物ではありません。
いまだにウチのオトンは怒鳴り声をあげます。そろそろ穏やかになってもらいたいものですが、家族というのは自分ではありませんから、その人はその人の生き方なので変わりません。
ですから、こちらが変わればいいのです。
キャッチャーミットを捨てて、鋼鉄の壁になればいいのです。
やられっぱなしじゃダメです。
別の所でお兄ちゃんを乗り越えてください。
自分ができることで、お兄ちゃんが超えられないところで超えましょう。
それはあなたの人間性や知性や感性やあなたのできること。
お兄ちゃんがあなたに勝とうとしてきたのは暴力の世界でだけの話。
そんなパンチを受けずに精神的金的を思いっきり蹴っ飛ばせばいいのです。
土俵を変えるのです。
私がスマップと競っても相手になりません。
あなたも暴力やお兄ちゃんの会社で競っても意味がありません。
精神的に独立をしましょう。
そもそも家族というのはその先祖、先代、親兄弟から影響を受けた存在で、さらに家族というものは、家庭内で家族に対して接する態度とオフィシャルな場で接する態度は豹変するものです。
つまり家庭内では遠慮がありません。
あなたの場合は家庭内プライベートモードを切り捨てて、常にオフィシャルモードでいることです。
次のように念じてください。
今日から一週間。
そのお兄ちゃんはそこにはいません。
あなたの課題は自分の想念を克服することです。
ちょくちょくフラッシュバックするお兄ちゃんがリアルお兄ちゃんではなく、自己イメージでしかないという事を見極めればいいのです。
人間が恐怖するのは自己の想念です。
ですが、実際に危害を加えられない限り恐怖する必要はありません。
あなたの手を観てください、鏡で顔を見てください。どこも殴られてもいません。あざもありません。
実際に痛くもかゆくもありません。
想念から一歩を踏み出し出てくること。これが出家的な生き方です。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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