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池で拾った僧侶の形の鈴について

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はじめまして
約30年前私が小学生の頃近所の池で(北九州市若松区の佐藤公園の池)ザリガニなどを取っていたときに僧侶の形の鈴を池底から拾いました。
それを家に持って帰りなんとなく飾っていたのですが元あった場所に戻したほうがいいでしょうか?
身内の不幸(死ぬほどではない)が30年間ずっと続いているような気がします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

それのせいではないです

人間不幸があると何かのせいにしてしまいたくなるものです。
私は不幸があった時、誰のせいにも何かのせいにもしません。
自業自得、自己責任、なるべくしてなった、と思うようにしています。いや、むしろ、何も思いません。
不幸や不運は「そういうできごと」であって、そこに自分がネガティブなイメージを添えて泥沼にはまって苦しむという状態に浸らせなければ、長続きはしないものです。
その不運は不運であっても、それを考えや思いの上で「不幸」にしてしまって、悪い思いを想起するのはどこまでいっても自分自身です。
昨年、弟・弟子が亡くなってしまいました。
本当に可哀想でなりませんが、その不運は不運。悲しくて泣きましたが、悲しいという事は哀しいという事なだけで、泣きもしますが、それをその後、苦しみ続けることと、悲しいということとは別物なのです。
良寛さんが「災難(不運)に逢う時は、よろしく災難(不運)に逢うべし。(不運にあって、不運そのものでああるものですが、そこに過剰に悪い思いを添えて自身を苦しませ続けない方が良い。それが災難や不運に出くわした時の、最上の災難(不幸)を免れる方法です)」と説いているのは、この道理なのです。
不運は不運。
問題はその像のせいにして、自身を苦しめることや、ネガティブ意識を大量発生させることで、そのこと以上に自分を苦しませることなのです。
その像は、この事をあなたに教えてくれるために今日まで、あなたを見守ってくれていたのです。
それでも、どうしても抱えきれなければ近くのお寺さんに奉納するか、お焚き上げをお願いすると良いでしょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

回答ありがとうございます。不幸ごとが続いていますが家族全員健康です。銅でできた立派な鈴で何かしらの願いをこめて池に投げ込んでいたのを私がなんとなく持ち帰って飾っていたのがずっと心にひっかかっていて現在の不幸ごととむすびつけていたのかもしれません。
不幸ごとのいいわけにしないためにも鈴は元々いた池にもどすことにしました。
ありがとうございました。

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