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回答数回答 1
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何度かご相談させていただきました主人と離婚しました。

元の姓に戻り、心機一転と明るく楽しく毎日を過ごしています。

と、最近何やら私の運が良い方向へ向いているような気がするのですが、それは気持ちの持ちようなのか、それとも名字と名前の総画数の関係もあるのかと不思議に思っています。
やはり、そういう事も関係があるのでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

❝人❞がいなくなったのでしょう。

夫に対する気遣いする人、不安に思う人、判断する人、非難する人、否定する人、悩む人、ハラハラする人がいなくなったのではないでしょうか。
人間は知らず知らずのうちに無限の「わたし」を作り出します。
その登場人物が脳内に多くなると、苦しいものです。
元の姓に戻られたことで以前の生活のようにあれやこれやと思うことが無くなったので心が楽になられたのでしょう。
人生は自分を自分のままに生きることです。
おめでとうございます。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

回答ありがとうございました。

言われてみると、その通りだなと感じております。
離婚する前は、子供が居なかった事もあるのでしょうが、主人の行動、言語が逐一気になり、毎日腹をたてていたような気がします。

これからは、自分メインで健康で楽しく過ごしていきたいと思います。

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