hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

良くないことをしでかしそうで焦っています

回答数回答 1
有り難し有り難し 18

仕事、プライベート、どこへ行っても生きづらさを感じています。

凝り固まった固定概念を押し付けてくる職場のお局様。

閉鎖的で過干渉で生真面目で、友達は一人もおらず、視野には家族のことしかない、同居中の父親。

住んでいる田舎の古臭く新しいものを受け入れない、男尊女卑の風潮。

都会へ移り住めない自分の境遇。

この大嫌いな田舎に生まれた以外は自分で選んだ道なのに、何に対してもイライラと怒りを抑えられません。
それは年々ひどくなっています。

最近は車の運転時に溜まっている感情が出やすくなっています。

穏やかに穏やかに、と自分に言い聞かせ、安全運転を心掛けてはいますが、ちょっとしたことでドカン!と感情が爆発します。
そのために先日とうとう、運転トラブルに巻き込まれてしまいました。

ニュースで時々、「運転トラブルで見知らぬドライバー同士の傷害事件」「家庭内トラブルの殺人事件」と聞くと、心のどこかで加害者に同情している自分がいます。
事件に発展するのがなんとなく分かるし、他人事ではないと感じます。

いくら自己啓発の本を読んでもカウンセリングに通っても、知識はついても身にはつかず…。

「今ここを大切に生きよう」「自分自身を認めよう」「身の回りの物や人に感謝しよう」と意識しているつもりなのですが、この10年で心は平穏どころか真逆へ向かっているようです。

亡き父方の祖父母が、最近の父親にかなり似ていて、私がこうなっているのは先祖代々の呪いなのではないか?とすら考えてしまいます。

目の輝いた幸せそうな人を見ると自己嫌悪に陥り、過食になり太って引きこもりがちな日々。
自分を認め穏やかに幸せに毎日を生きられるようになるには、どうすればいいのでしょうか。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ホントは何もあなたを縛っているものがないと知る

そのお気持ちよく分かります。
私は庭掃きを一日に2時間ぐらい毎日のようにやっていました。
今日もこれから庭を掃き、これからも庭を掃き続けるでしょう。
ですが、うちは自然がいっぱいなのでホウキで掃いているレベルではありません。
ブロワーを買って風情もへったくれもありませんが、十数分で終わるようになりました。
あの時あのまま毎日一人で庭掃きをしていたら発狂して庭の葉っぱを食べて死んだと思います。
今の現状をあたたた!👊打破するのはあなたしかいません。
だれも抑制していません。止めていもいません。
出来ない、やっちゃいけない、やらない方がいいと思っている場所は何処でしょうか。
みんなあなたの心の中です。
それはつまり、他の人はアレするなコレするなと言っていないという事です。
リミッターを解除してあなたのやりたいことを人に迷惑かけない様にやったらいいと思います。
お局さまに打ち克つのも、先祖や誰かのせいにしている自分も、自分の負の感情に打ち克つのも、あなたです。
どんどん、前に進んでください。
次に引っ込み思案が出てきた時こそ、それを打ち破るきっかけにするのです。
あなたを苦しめているのはあなた。
あなたの思いの呪縛があなたを縛っていることを見抜いてください。
ああ、これが自分の思いなのか、とわかったらそれを振りほどいて行動あるのみです。
心を65535バイトくらい消費していくら動かしても紙一枚動かすことはできないのです。
私の横には洗っていない食器があります。
これを打ち終えた直後に私は、やりとげます。完結します。すぐに行動します。そうだ、あらうぞ。茶碗。

…といった感じで、行動をしましょう。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

10年もの間状況が良くならないのは、きっと自分自身の心の中に問題があるからなのでしょうね。
実際には身の回りの人全員が「だめ」と言っているわけではないと、単純なことに気付きました。
行動。思いついた時に小さなことから始めてみます。
少し元気が出ました。ありがとうございました。

煩悩スッキリコラムまとめ