生きる上での軸がありません。
いつもお世話になっております。
今回は自分自身のことについて質問させていただきます。
自分がどういう人間なのか、どういう人生を送りたいのかが分からず悩んでいます。
幼少のころは比較的活発だったと思いますが、引越しによる転校を機に人見知りになり、周りの目を気にするようになりました。
それ以来、周りの顔色や性格を伺いながら、どういう自分で相手と接しようか考えながらコミュニケーションをとっていました。
家族と接するときも同じようになってしまい、特に親が怒っているときなどは、親に求められている「私」でいようとしたり、ご機嫌取りのようなことをしたりしていました。
周りに求められる「自分」であろうとしてきたことで、「自分」という人間の個性が確立されていないように感じます。
取り柄のない、面白みのない人間だなぁと思います。
幸い、深い付き合いの友人がいます。人生のパートナーもいます。
リラックスしてコミュニケーションが取れているので、飾らない自分でいられていると思っています。
ですが、友人たちは個性があって、自分のやりたいことを明確に持って、それに向かって邁進している人もいれば、ひとつのことを極めている人もいます。
皆、きちんと軸を持って生きているように見えて、羨ましく思います。
羨ましいと思うこともまた、自分軸がないが故なのかもしれません。
自分を見つめ直す、自分のやりたいこと、生きる上での軸を探すのにはどのようにしたら良いでしょうか。
心の保ち方や考え方など、ご助言いただきたく思います。
どうぞよろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
私の軸は借り物なのかも
こんばんは。浄土宗の僧侶になって約25年、お寺に生まれて50年近くになりました。「あなたの軸は?あなたは何者ですか?」と聞かれて、「浄土宗です。法然上人の教えです」と答えることができます。
でもこれ、結構ラッキーな状況ゆえかも、と思うのです。
まず、周りがとても納得してくれます。お寺に生まれて修行もして、まっすぐに「浄土宗です」と言うのは筋が通っている。生まれは選べないけれど、最初は言わば「押し付けられたもの」だったけれど、味わって自分なりに咀嚼して、言えるようになりました。小学生の頃は、「お寺の子です」と言うのは恥ずかしかったんですよ。
でもね、その生い立ちで、「実は私の軸は真言宗です」と言ったとしても、それなりに説得力はあるのではないかと思います。「えっ、浄土宗のお寺に生まれたのに?」と驚かれるでしょうが。一旦浄土宗の教えを受けて染まり、後から真言宗を学んで染まり、我が軸とする。比較して選択した訳ですが、それでも「言い切ったもの勝ち」のように感じます。
というのは、浄土宗は畢竟「阿弥陀様はそう言っている」「お祖師様がそう言っている」、それを信じているという話なのです。自分が実際に死んで体験したことではなく、「…が言っているから」というもの。タイトルで「借り物」と付けたのは、そういう事なのです。
ということで、生きる上での軸とか信念というのは、借り物でもいいのではないか。それを信じて実践するうちに、借り(仮)から身についてくるのでは…というお話でした。
もう一つの「自分のやりたいこと・好きなことを見つける」は、難しいですね。コツとしては「面倒がらない」ことかな。イコール「好きになる」とは、これかと思います。好奇心で持って物事を見ると、近道になりそうな気がします。あとは他人の真似。「真似ていくうちに我が物になる」は、昔から言われていますね。
評価、比較、解釈は作り物
拝読させていただきました。
軸とはなんでしょうか。考え方の軸ならいらないと思います。むしろその軸を持つことによって惑わされたり、考え方が極端になってしまいます。
「これ!」という考えを持たず、「人間の価値は考えることにある」といったような価値観を手放したときに、自然と指針となるようなものが見えてくるように思います。
考えとは結局作りものです。事実ではありません。考え方は人間の数だけありますが、事実はひとつだけです。解釈、価値付けが人それぞれ違うのです。その解釈のほうを本当だと思うと、自分が振り回されてしまいます。事実と解釈の違いをしっかり分かっていれさえすれば問題はないと思います。
質問者からのお礼
ご回答いただきありがとうございます。
自分はこうしたい、という、生きる上で軸になるものがなく、人の意見に左右され、気持ちにブレが生じることが多かったので、信念を持つ、軸を持つことでブレがなくなると思い悩んでいました。
自分と向き合い、周りに振り回されることなく自分の人生を生きられるよう、自分の心と向き合い考えようと思います。
ありがとうございました。