愛欲について
ハスノハで学んでおります、ありがとうございます。相談でございます実は私は3年前受洗したキリシタンです。こちらに相談したいと悩んでましたが思いきって書き込みします。プロフにも詳細書きましたが有難い事に仏縁に恵まれ仏教も勉強しており仏様、法、お坊様とても尊敬しています。またマザー・テレサが『異教徒たち。彼らを尊敬しなさい』との言葉があり勉強しています。 尼さんの著作を読み愛欲、渇愛・慈悲を学びました。私は結婚する約束をしていた恋人に捨てられ、その後違う男に連続でデートDVを2回受けたり、それ以外でも他人の色恋沙汰に巻き込まれいじめにあったりしました。それから働けないくらい治らない病気になり自殺未遂、これではよくないと『恋愛という愛欲や渇愛・性愛ではなく、慈悲深い、無償の愛を見返りを求めない愛を学びたい』と考え教会に通いだしました。
そこで年下の男性がいて最初はとても親切にキリスト教関連の聖品をくださりキリスト教系の本を貸してくださりました。最初は『熱心に指導してくださって、私もあんな風に新しく来た人に親切にしたいな』と感心しておりました。しかし時間が経つと妙なのです。急にちゃん付けで呼び敬語で話さず私の座る席に本を勝手に置き貸してあげると言ったりとにかく贈り物も過剰になり、以前霊の話をしたら彼はオカルト趣味だったらしくオカルト趣味まで押しつけられそうになり何か嫌な予感がし、避けていましたが3ヶ月前ミサ後に神父さまに呼び出され『彼から申し出が。結婚を前提に付き合ってくれと』と言われました。ショックでした。前述どおり私が一番触って欲しくない地雷だったので。仏教の本で読みましたが愛と愛欲は違うと。『自分が好きになったから、あなたも自分を好きになって頂戴』と言われた気分になり愛欲だと思いました。よりによって無償の愛を説く教会でそんな事があり、お釈迦様は愛欲に関してかなり厳しくおっしゃられていたと聞き、イエスも性愛と無償の愛は違うと聖書の中よく説教していただけに『あなた今まで何学んでいたの』と憤ってしまいました。あれからショック悲しみ憤りと気まずさで教会に3か月行ってません。私は病気で中々外出するのが難しく体に無理をして教会に通っていましたが今は家か通院、福祉センター以外は引きこもり。体調面で家にいるしかないので悩みが渦巻いて困っています。お坊様ヒントをください。お願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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愛は実践
無償の愛はどこにあるのでしょうか。私の心の中にあるのでしょうか。この弱くてちっぽけで、人を選び・嫌い・差別する私が、教えによって人を分け隔てせず見返りを求めない愛を手に入れることができるのでしょうか。
私はそのようには聞いていません。教えによって「ぶれない私」になるのではなく。「ぶれない教え」によってぶれる私が知らされ、ぶれるままに救われていくところに有り難さがあると聞き及んでおります。
仏教でいうならば「縁」によって起るのが現象です。ですから縁によってぶれるのが私です。だから私には愛があると愛を握りしめた所で、愛せない現実にぶれる私は思いと事実の差に沈んでいくばかりです。
よって、どこまでも「無償の愛」などという愛では愛せない私が教えに照らされながら、愛とは何か問い続けていく歩みが「愛の実践」です。
彼も縁によって起った感情に身を焦がされたことでしょう…それが性愛でも愛欲でも渇愛だとしても愛は愛。愛が愛である限りそこから始まるものがあるのです。愛に向き合い、愛とは何か問い続けるならば相手を貪る性愛・愛欲・渇愛に敗れ、相手をそのまま相手として愛する道が開けてくるのでしょう。
愛とは実践なのです。問い続けるものなのです。
たとえマザー・テレサでも無償の愛がはじめからあったわけではないでしょう。おそらく、ぶれることも挫けることもあった。しかし彼女は貫いた。愛するとはどういうことか問い、愛からも問われた。そこに彼女なりの道が開けたのです。
今、愛を問うあなたが彼を彼として愛する方法を問うならばどうするか。
彼の思いには応えられなくとも、彼を彼のままに存在として受け止める愛があることでしょう。彼の思いではなく、彼という存在をそのまま愛する。その具体的な歩みが、「無償の愛」への実践でしょう。
同時に、自分を自分として見返りを求めず愛する道をも問いましょう。ショックや憤りや気まずさを抱えるという事は自分を自分としてそのまま愛せず、「こうあるべき」という自分の思いを愛しているのかもしれません。
「思い」の前に「事実」がある。言うならば、神に愛され、仏の慈悲の中にあり、私が存在している事実。その事実を教えに知らされる歩みが「愛の実践」です。
共に、愛するとはどういうことか、無償の愛とは何か、相手をそのまま愛するとは何か、問い続けていきましょう。
人間関係の中で自分の生き方をどう貫くのか・・・
緑の葉っぱさん、こんにちは。
辛い思いしましたね。恋愛のゴタゴタで恋愛拒否症になっておられるのですね。たとえ教会やお寺であっても、男と女が一緒にいる場では、恋愛感情が発生しやすくなります。これは人間も動物である以上、恋愛は本能ですから避けて通ることはできません。
あわせて、葉っぱさんが熱心に信仰をするほど、魅力的な女性になるわけですから、男性により好かれるのも当然といえば当然です。だから教会でもお寺も修行に入る時は、男性禁制・女性禁制にするわけです。
もし葉っぱさんが、今はお付き合いしたくないのであれば、恋愛感情が起こることを前提で、活動ではプライベートでの交流は避けるとか、彼氏がいる嘘発言をしておくとか、神父さんに自分の立場をお話しておくとか、男性に恋心を抱かせないような対応は、社会人としても必要なことです。
さて、キリスト教のアガベーを本訳する時に、漢字の愛を当てましたが、性愛とごっちゃになってしまった感があります。
アガベーは仏教の慈悲に近い精神です。逆に仏教では愛は心身ともに煩悩の一つとして捉えます。本能ですからそのもの自体には善悪はありません。しかし愛欲にとらわれてしまうと生き方を誤るわけです。だから大乗仏教では愛を切り捨てるのではなく、理性をコントロールすることを目的にします。
お経のお話です。ある熱心に修行するお坊さんが、どうしても性欲から離れなれないために、ついに男性器を切ってしまう事件がおこります。それを聞いたお釈迦さまは「切るものを間違えている」といわれたそうです。
葉っぱさんも男女の社会で生きている以上、外的な要因を排除することにとらわれず、いなす力を身につけられた方がいいでしょう。是非、仏教を学ばれて、自分の心のコントロールにチャレンジしてみてください。いつでもつらければ相談に乗りますので、気軽にご連絡を。合掌
質問者からのお礼
お忙しい中、ご回答くださりありがとうございます。
吉武様
ごめんなさい、文字制限で書けなかったのですが言われた直後に、きちんと神父さまを通して彼にはお断りしましてその際『何と伝えたらいい?』と聞かれ『どうか傷つけないようにお願いします。』という自分なりに出来る限り愛情込めてお願いしました。私は発声器官の病で何度か手術し、肉体的に話す事・喋る事が苦痛で普通の方より障害があります。それもその人たちに前もってお話していたのですが…。加えて精神的ショックが強くて本人を目の前には無理でした。相談に書いた他人の色恋沙汰に巻き込まれいじめにあっていた時の後遺症でメンタルの障害者手帳も所持していまして今もそちらの通院もしておりまして、二つ障害を持っており療養している私にはそれが精一杯でした。
説明足りてなくてすみません。
逆にへんにソワソワしたり冷たい対応をしてしまうような気がしたのもあり、それでは彼が気の毒ではと気を遣ったのもあり、気まずさもあってそれきり教会には行っておりません。キッパリ御断りするのは慈悲だと聞いたことがあります。自分の出来る限りでしました。親しき仲にも礼儀ありで『人間関係は腹6分、自分が大事にされたければ相手を大事にすることです。愛し合っている相手だからといってなれあいで心の中まで土足で踏み込んでいけないし、礼節を忘れてはいけません。それができればあなたの愛も育っていきます。』と本で読みました。
ここの中にある言葉の愛が慈悲という意味で考え、そっとしておいてあげるのも愛情で思いやりだとも聞きました。ゆえにその事がある前に互いの為にと考え、避けていたりしておりました。
その出来事があってから相手に対するその後の対応を考えたり、ショックが強すぎて治療中の過去のフラッシュバックが症状として出てしまい受け止めきれず毎晩泣いていました。しかし確かにこの出来事を通じて、痛手でしたがお坊様のおっしゃるように己の器、ちっぽけさに気付けたふしがあります。
『一升瓶には一升しか入らない。』
まず、己の器を知覚し
その一升を広げるようにご教示をいただき有り難うございました。そのように考えて参りたいと思います。
染川様
温かいお言葉有り難うございます。
『男女がいる環境では恋愛感情が発生しやすくなる』の一文でハッとしました。その辺の事は全く頭に入っておりませんでした。実は退院してから瀬戸内寂聴さんの著作を読みふけっておりまして、特に愛欲についての記述が厳しく、そこにとらわれ恐怖を感じすぎたかもしれません。
いなす力、私も身に付けたいです。過去の教訓から『見返りを求めない事』それを自分に対しすごく厳しく心掛けてきました。
しかし見方を変えれば、そこにこだわりすぎて、今回お話をしていただいたそのお経の性器を切ってしまった方に近い心境になってたやもしれません。具体的な対策を考えてくださり、また、過去の経験にこだわっていた私に『恋心を抱かせない対応も社会人には必要』というお言葉で自分の今後の生き方も踏まえ智彗をくださり有り難うございました。
今まで過去ばかりでしたが、そのお言葉を聞き、自分の中で初めて『未来』というものが明るい意味で見えました。ご教示いただきましたように実践して参りたいと思います。有り難うございました。
追記です。
吉武様、御断りをした時、障害を抱えながらも懸命に出来る限りの力で最善を尽くしましたが所詮、私のような障害者が愛情を学んだりしても障害がある限り愛情というものに達するのはそもそも最初から無理だったのでしょうか。
お忙しい中、お返事ありがとうございます。ひとつ言わせてください。私は差別・好き嫌いなどしておりません。文章何度か読みましたが、9年前デートDVでレイプされたのがショックで自殺未遂失敗してそれでも失敗したから神様仏様が生かしてくれたんだと感謝して、病院帰りに上野まで病気で辛い体にむち打ってお礼参りしたり大好きな観音様にありがとうとお礼参りしたのですが、後悔しました。レイプされたあの時に死ねばよかったと思いました。文章読み返して更にすごく傷つきました。お坊さんがおっしゃる事はいつも正論です、しかし追い詰められた人間に、正論で追い詰めれば人は簡単に死にます。障害を持つ私には辛辣でした。今日もずっと泣いてました。もう二度とあんな言い方しないでください。久しぶりに死にたいと思いました。