切れない御縁
いつもありがとうございます。
「この人さえいなければ。関わりたくない」と思う人となぜか関わりを減らせず、例えば連絡を断つためにメールを受信拒否した直後に偶然街でばったり会う、自分の友人とも突然繋がりを持ってしまい断りづらくななってしまった、とかそんな感じのことまで起こります。
そういう場合その人となんとかうまくやっていくことは、じぶんにとっての試練であり、逆に避けていると別の試練が訪れる、とある人に言われました。
そういうことってありますか?
避けて通りたいけれど、敢えて向き合うことをなにか見えない力で後押しされているような。。
自分の人生から排除したいのに、逃げても逃げても追ってきて(本人が意図的に追ってくるというよりは全て偶然)、乗り越えるべきものとして差し出されているかのような。。
そういう御縁ってあるのでしょうか。
あるとしたら、逃げ出さずに良い関係を目指して向き合うことが正しいことでしょうか。
切っても切れない不思議な関係ですが「いなくなって欲しい、消えて欲しい」とすら思ってしまう場合(言葉が悪くてごめんなさい)、どう気持ちを落ち着かせれば良いのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
ご縁、ご縁、みなご縁
ご縁についての深いお話を聞かせていただきました。
そうなのですよねえ、本当にご縁とは不思議で、そして思い通りにならないものですね。
「この人さえいなければ。関わりたくない」と思う人と、ご縁を切ったとします。
でもね、そうすると
「ご縁を切ったというご縁」が残るのですよね。
それは単に物理的に会わないという決意をしただけで、ご縁を切った事への思いがずっと頭の中をモヤモヤと渦巻いているのでしょう。
縁を切ったのであればたとえ偶然に会おうとも知らん顔してスッキリキッパリできるはずなのです。
ところがそうもいかない。それは「見えない力で後押しされている」というよりは自分の中で整理ができていない、乗り越えたり受け入れたりできていないということなのでしょう。
「ご縁を切ったというご縁」に翻弄されているということです。
人間合う合わないがありますから「いなくなって欲しい、消えて欲しい」と思ってしまう人も出てくるでしょう。むしろ仏教では怨憎会苦という避けられない苦しみとして説かれています。
やはりこちらが問われているのでしょう。
どうして合わないのか。どうして恨み憎しみ合うのか。どうして消えて欲しいのか。
その原因を深く考え、どう振舞うか問い、実践する。正解があるわけでもなく、別にうまくやっていくとか良い関係を目指す必要があるわけでもない。ただし今それを避けてもまた別の人とそういう出会いが巡ってくるかもしれない。
う~ん…自分がどう思おうが、相手を相手として認めることなのでしょうね。合う合わないではなく、その人はその人として、自分は自分として…。あとはその合わない2人がどうしていけるか試行錯誤する。
そう考えるとおっしゃるとおり一つの試練ですね。問題から逃げずに向き合ってくださいというご縁からの促しといただいて考えていきましょう。
質問者からのお礼
遅くなってしまいましたが、ご回答いただきありがとうございます。
確かに切れた縁のはずなのにいつまでも頭から離れないということもありますね。案外その方が他の大切なことよりも頭の中の大部分を占めていることもあります。
いなくなって欲しい、でも居なくならない、関わりを避けることも出来ない…
こんなに嫌なのにご縁って不思議ですね。
自分に与えられた試練と信じて、また乗り越えたらきっとそこに何かあると信じて頑張ります。