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昔の彼氏が未だに夢に出てきます

回答数回答 2
有り難し有り難し 14

タイトルの通りなのですが、
もう別れて10年以上経っている元の彼氏が、
未だに夢に出てきます。

普段の生活の中では、本当にこれっぽっちも
思い出すことなく過ごしていますし、
別れた時に関係する知人は全て離れたため、
関わらない生活が10年にもなるのに、
何故か夢にもだけ出てきます。

起きてから少し悲しくなるんです。
思い出したくないし、普段は思い出さないのに
何故夢に出てくるのだろうと…。
しかも割と頻繁です。

別れてから誰とも付き合ってなく、シングルのままで、
たまに寂しさがないとは言いませんが、
割と充実してるというか、のびのびと暮らしているのに、
その夢を見て起きてはため息です。

つまらない相談かもしれませんが、
誰にも相談出来ないので、
よろしければ何かアドバイス頂けると嬉しいです。
宜しくお願い致します。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

夢は夢、なんの問題もない

元彼の夢を見ても何にも問題ないでしょう。記憶の中に元彼がいるから、見ただけです。そこに意味はないです。

人は、自分の都合で物事を見たり考えたりする習慣があります。今回は、元彼という過去の人であり、元 なのです。

あなたはすでにご自分の人生をのびのびと過ごされているとのこと。十分ではないでしょうか。なんの心配もございません。夢も目が冷めれば過去になります。現実が幸せならそれが真実でしょう。

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個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

恋をすべしという指令

うん、きっと、それは彼のことが本心で気になっているのですね♡
夢に見る程ですから、きっと恋に発展するかもしれません。(^<^)♡
(^<^)絶対、運命の人ですよ。もう一度ヨリ♡を戻すために連絡してみたらいかがでしょうか。
ごめんなさい。嘘です。(;゚Д゚)! (´-ω-` )
人間誰でも分かれた人の事でなくとも思い返すことがあるものです。
別れた人、付き合っていた人、という特殊な条件だから余計にも気になるだけです。
最初からこんな冷たいこと言ってもあなたは面白くもなんともないでしょうから、色を付けました。
ですが、お詫びに提案ですが、年齢から推察するに、今もお一人サマでおられることを選択されているという事は、時々寂しくなるものではないでしょうか。
かつて恋仲であったわけですから、恋するという事は理想的最終形は子供を持つことです。
ひょっとすると「アナタ恋をしなさい」とあなたの生命、DNAが指令を出しているのかもしれません。そういうことがあるものですよ?
人間は自分の快適な方向へ向けて選択をします。
あなたが恋をせずにずっと一人でいたという事は、それもあなたの選択です。
ですが、単に傷つきたくなかったから安全地帯にいたかったが為の選択であれば、今後恋をして傷つくことよりも、結婚せずに一人で生きていくことの方が後々、大きな後悔につながるかもしれませんから、天秤にかけてより重要な方を選択しましょう。
お寺での婚活パーティーに参加なさってください。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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