因果応報
因果応報という言葉があるように、悪口だったり心ない言葉だったりを言えば、自分も同じことを言われているんだから極力言わないようにと心掛けて来ました。(悪口を言う時に人差し指でその人のことを指さしているとしましょう。中指~小指はどちらを向いていますか?自分ですよね。自分が誰か一人のことを言えば、三人は自分のことを言ってると思いなさいと以前言われたことがあります。)
ですが、数年前に知り合った知人なのですが、好き勝手悪口を言ったり、目を覆いたくなるような事件が起きれば、「その犯人、死ねばいいのに」と言ったりします。気持ちは分かりますが、その犯人にも家族があり・・・・と考えると悪いことをした事は別にして、単に一言で死ねばいいと片づけるのは違うのかなと思いますが、その自分の考えが間違っているのか分からなくなります。
そんな知人は、とあるアーティストのファンで、コンサートにも行くのですが、毎回いい席ばかり。偶然なのかと思いましたが、ここ数年ずっと、そこそこいい席ばかりで、それ以外にも偶然が度々重なり何かと巡りあわせが良いことばかりなのです。
一方の私は、あまりいいとは言えない席ばかりだったり、一生懸命やっても上手く理解してもらえなかったりして苦い思いをすることがしょっちゅうです。
普段は巡り合わせのいい知人ですが、いつか因果応報で、他人からあれこれ思われる日が来てしまうのでしょうか?どことなしか、それを待ってしまっている自分にも因果応報で、返ってくるのでしょうか?
何かアドバイス頂けないでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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結果には原因があるということ
因果応報…この言葉って広く出回っていて、みながそれぞれのイメージをお持ちなので、その自分のイメージに現実が合わないと「因果応報はないのか!!」「仏教の教えはウソなのか!!」となってしまうキライがあるように感じます。
もともとは「善因善果 悪因悪果」ということで、「善い行いをすれば善い結果が、悪い行いをすれば悪い結果が」という教えであり、その「善悪」も一般的な良い・悪いでなく仏教的な善い悪いです。つまり悟りに近づくのが善で遠ざかるのが悪です。
けれど今は「あの人は悪いことばかりしてるから悪い報いがないと不公平だ!!」なんて使われ方をしますね。
それでも私は因果応報は真実だと思っていて、それは何も壮大で神秘的な教えということではなくて、当然の事であると思うのです。
全ての物事には原因がある。原因に応じて結果がある。結果から見ると必ず原因がある。
これだけです。なんてことないでしょう。
だからその知人はコンサートに申し込んという原因で、チケットがあたったという結果がある。その席の場所は「たまたま」でしょう。それをゆかたん様の視点で「知人は悪い言葉遣いをしてるのに!」と別の要素、関係のない要素を持ってくるのでわからなくなるのではないでしょうか。知人の行いを全て見ている神様が席を決めているのではないのす。知人が申し込んだという原因に当選の結果がついてきただけなのです。
どんな結果も間違いなく原因から起きています。だからその知人が好き勝手悪口を言っているという原因に応じての結果も間違いなく本人が受けている、あるいはこれから受けると思いますよ。
ここhasunohaでも過去のどんな小さなウソや悪口でも何年もたってものすごく後悔しているという相談が多数寄せられています。自分のした報いは自分が受けるのです。
その報いは人がどうこう言えるものではありません。お釈迦様は
「他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ。」
と教えておいでです。結果には原因があります。きちんと因果関係のあるものを結び付けて考えるのが仏教です。因から見れば縁次第で果は変わりますが。果からみれば必ず因にたどり着きます。だから仏教は未来でも、過去でもなく「今」が大事です。今まさにこうなっているという「果」から因を見ていくのです。
質問者からのお礼
そうですね。関係ない要素を持ち込んでいますね。
自分のしたことだけ見るようにします。
ありがとうございました。