縁起恐怖症について
不謹慎なことを考えてしまう縁起恐怖という言葉を最近聞きました。私は統合失調症や強迫性障害などを持っています。過去の過ちに関係のありそうな神仏や霊牌に対して私の過去と関係があるから不謹慎なことは思わないようにしようと何度も思いその度に家で謝ったり土下座したりしています。神社に謝りに行くのも最近も苦痛になり辛いです。不謹慎をさらに不謹慎で塗り潰すような行為を繰り返してしまいます。バチが当たったり何かあったら本当にどうしようといつも悩んで苦しいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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頭が勝手に考えたことにすぎない
頭で考えたこと(概念や観念やイメージ)を仏教では「法(ほう)」と呼びます。
そして、法(頭で考えたこと)は空虚な幻みたいなものであり実体が無い(無我だ)と言われます。
脳というのは言葉一つからでもあれこれとイメージを膨らませたがるいたずらっ子なのです。
脳ミソのいたずらに本気で付き合う必要はありません。
不謹慎なことを考えたからバチが当たるとかは気にする必要がありません。
たとえば「バチが当たるかも」と思ったときには、その後に「と、脳ミソは考えたようだ」と付け加えましょう。
事実ではなく脳ミソが勝手に出力した架空の物語だと思ってください。
今、下記の言葉を念じる練習してみてください。
「と、脳ミソは考えたようだ」
縁りて起こるというだけなのだから、恐怖だけではなく清浄に。
縁起、出会い、関係性は必ずしも恐怖ばかりではないと見極める。
こんなことがあったらいやだなァとおもうことの99・999…%は起こっていないというデータを見極める。現実・真実は自分の頭で考えたことが起こっているわけではないのだ、ということの見極めこそがシラフなマインドの第一歩。仏教で説く一切皆苦というのは「苦」とは苦しみではなく、一切は自分の思いとは別次元にあるという意味です。つまり、あなたはアナタの脳内フィルター越しにしか眺めていないところがあるから現実とのギャップで苦痛や不安が多く生ずるわけですが、現実はどうですか?あなたの思った通りになっていますか?その心理的な居住地のメインスペースがほぼ頭だからいけない。人が本当に居る、住む、居住する、存在する場所というのはアンタのその頭の中ではなく、今日の天気一つですら思い通りにならない予測不可能にして誰のルールや願いからも自由な活動をしている今日のたった今の底のその現実なのですよ。そこに目を開く、目を覚ます。
( ゚Д゚)💡
ああ、私が住み着いていた洞窟は私の頭の中のインナーワールド、私だけにしか見えていない私のアタマの中が作り出した、現実によく似ている私独自のストーリー、妄想、想像、予測(しかもほぼ的中しない)にすぎなかったのだ、とあなたを責めるのではなく、あなたのその妄想を叱り飛ばすように、目を覚ませばいいのです。
習慣になっているでしょうから、定期的にそこの気づき、踏みとどまりを意識して、そっちに行かないようにすればいいだけです。本当の不謹慎極まりない行為というのは、あなたがあなたの身心を安楽に向かわせてあげないまま、妄想ワールドをゆうせんすることではないでしょうか?あるいはいたずらに謝ってばかりで、自分はダメだ、バカだ、愚かだ、こんなんじゃだめだと自分を低評価し続けていることこそ、あなたの良心・本心に不謹慎ですよ。
安心してください。世界はもっと優しいです。
人には人のルールがありますから、真実には値しない面もありますが、世界、今日のこの世界、事実というものは毎日、いつでもフレッシュです。
だから貴女も勝手にお手つきしてはいけない。どうせ、こうだろうと思ってもいけない。縁起という言葉の正しい使い方もまずその目の前の事実というものは寄りて起こっている無垢清浄の清らかな事実であるということ。事実はあなたを傷つけない。
質問者からのお礼
お二方のお坊さんご回答ありがとうございました。かなり気持ちが楽になりました。脳の病気や自分の囚われていたルールから少し解放された気がします。本当にありがとうございました。