hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

日々避けられない殺生を償いたい回答受付中

回答数回答 2
有り難し有り難し 10

生きていると殺生を完全に避けるのは難しいかと思います。
現在、動物達に生きている間も苦しみをもたらす構造への反対の意味を込めて、食べるものだけでなく身につけるものも含めてヴィーガンの生活をしています。
だけど植物ももちろん生きています。苦痛というテーマに対処するにはヴィーガニズムは妥当だと思われるのですが、殺生への対応が悩ましいのです。

私が精神的に参っていた時に、周囲の人々に私を個人として尊重して貰えたことがとても嬉しくて、自分も愛情ということを大切に生きていきたいと強くおもいました。

だけど集約畜産の話題を通じて日々の避けられない殺生について考えた時、大きな矛盾を感じるようになりました。

私には帰依してる宗教はありませんし、霊能力もありませんが、スピリチュアリティのことは大切に思っています。
なので、私の願いとしては、殺してしまうという、あまりにも莫大で取り返しのつかないように思われることについて、殺されたいのちも助かるようなことがしたいのです。
殺されたいのちにも救済はあると、実感出来る瞬間に出会いたいのです。そのような世界であって欲しいし、そうでないなら近づいて欲しいです。(煩悩でしょうが、諦めたくないのです)

年末に神社の大祓式にも行きましたが、木を切り倒して作っている切麻を振りかけるところが自分に合わず、自分で儀式を設けて定期的に行えばいいのではとも思うようになりました。
季節の変わり目ごとに自分で身を清めてから献血に行くなどしてそれを行うつもりです。

でも、上のことも全部自己保身なのかなとか、殺されたいのちに救済があると考えること自体事態を軽く見てて、甘いのかな、ということも考えてしまいます。
でもこのままは辛いです。いのち達についてそんなのあんまりじゃないかという気持ちもあるし、夥しいほどの殺生を死ぬまで避けられない自分も汚れてるのかななどと思ってしまいます。
ベストを尽くしたいですし、誇りを持てる自分でありたいです。

殺されたいのちと、自分自身に対して、どう向き合うのが誠実で、愛なのか、ご助言を頂きたいです。
建設的なものに集中したいので、できれば、厳し目のお言葉は控えていただければありがたいです。

また、もし霊の見える方がいらっしゃって、日常的な殺生について何か視えたことやお考えなどありましたら、どうぞお聞かせください。

2025年4月16日 13:07

この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ご質問ありがとうございます。
しばらく考えてみたのですがとても私には正解を答えることはできないと思いました。
あなたの思いや疑問は間違っていないと思います。これからもその思いや疑問を持ちながら、命に敬意と感謝を持ちながら生きて欲しいと思います。
あなたのような人がいれば、いつかは医学や科学が進んで家畜が無くても栄養と空腹を満たせる時がくると思います。
いろいろと考えながらふと思ったのですが、植物ももちろん命なのですが、人間が植物の命を食べるという事も違う見方ができるかもしれませんね。植物が二酸化炭素を必要とするから、酸素を吸って二酸化炭素を出す人間を畜産しているという見方もあるかもしれないと思いました。化石燃料を燃やして二酸化炭素を作ることまで植物が考えていたのかどうかは分かりませんが。
考える機会をありがとうございました。
私も見習いたいと思いました。

2025年4月16日 16:28
{{count}}
有り難し
おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答していますが、無知未熟ゆえに質問を読ませていただくことしかできないことも多々ありますがお許しください。 回答は私個人の意見や解釈もあり、場合によっては浄土宗の教義とは少し異なることもあるということをご了承ください。 また、寺の紹介ページに電話相談についても紹介していますのでどなたでも気兼ねなくご利用ください。 ハスノハのお坊さんがもっと増えますように。 合掌 南無阿弥陀仏

いただきます

質問いただきありがとうございます。
人間は生きるという行為の中で、必ず何かの命をいただいております。
「生きていく以上、何かの命を頂く」ことから完全には逃れられないという現実は、まさに私たちの生き物すべてが直面している倫理的課題です。
たとえヴィーガンであっても、植物の命をいただくことは避けらませんよね…

仏教のなかにも「不殺生」という教えがあります。
しかし、先ほどお伝えしたように人が生きるためには完全に殺生を避けることが難しい、矛盾が生まれてしまいます。
では、「不殺生」という教えは、何を示しているのか…
私の考えにはなりますが、「日々の行動に意識を向け、可能な限り他の生命への配慮を持つことが大切であること。日々の選択や行動の中で、いただいた命に対する敬意や思いやりを示すことができたのなら、それ自体が「慈悲」の実践であり、いただいた命への供養となる」ということを伝えたいのではと思っています。

さらに、この考え方を深堀りすれば、「生きるということは単に他者の命を奪う行為ではなく、いただいた命を大切に生かし、その恩恵に感謝することで、生命そのものに対する尊敬と慈しみの心を育むことができるのではないでしょうか?
すなわち、生命を「奪わずに生きる」のではなく、生命を頂き、その「命をより生かし、慈しむ」心で生き抜くことが、私たちの宿命であり、真の「不殺生」の実践ではないかと考えます。

と難しく言いましたが、食事の前に心を込めて「いただきます」食べ終わった後は感謝の気持ちで「ごちそうさまでした」と手を合わせて祈ることだけでも、命を活かすことに繋がっていると思っています。

とろさんは、「命」に対してすでに、​殺生を避ける努力や、動物たちの苦しみに心を寄せる姿勢は、まさに慈悲と共感の表れであり、そのような感性を持つこと自体が、すでに多くの命に対する救済の一歩となっておられますよ。

2025年4月16日 14:10
{{count}}
有り難し
おきもち

質問者からのお礼

ありがとうございます。

殺生戒については、解釈の分かれる所ですよね。戒というのもあって努力目標として捉えるということもひとつであれば、生き物の命を奪わずにはいられない我々の(言わば凡夫としての?)ありようを教えるものとして捉えるのもひとつですよね……。様々な解釈をこれまでネットで見かけてきました。いったいお釈迦様は避けられない殺生についてはどうお考えだったのだろう、とよく考えたものです。

せっかくお答えをいただけたのに申し訳ないのですが、私としては、頂きますと唱えることは、自分に合わない儀式だったので、他のものを探しているのです……。(もちろん礼節という意味では大切だと思いますし、食べ物を粗雑に扱うよりは感謝のある方が良いと思います。)

命を奪っておいて出てくる私の気持ちは、感謝というよりも申し訳なさや痛ましさの方であるべきではないか、と思ってしまうのですね……それと、いわゆる「いただきます」の源流は、大地の恵や調理してくださった方々への感謝ではないかと考えております。敬い、感謝することは大切ですが、それが命を奪うことの重さを隠す不誠実に繋がるのではという懸念がずっとあります。

古川様は、命を奪った対象に感謝することは慈悲として成り立つと、信じていらっしゃいますか?これは成り立つわけが無いと言いたいのではなくて、そのようなお考えの方もいらっしゃるなら、きっとそれも私にとって大切な知見だと考えるからです。

他の回答者様へ私の立場をより詳しくお知らせする意味でもこのような内容のお返事になってしまいましたが、私の悩みに応えてくださる方がいることに、とても感謝しています。ありがとうございます。

聖章様

お答え頂きありがとうございます。
やはり、難しい問いですよね。私も実は1年半近くこれに悩み苦しんできました。神秘主義的な形でも良いから何かこの世を超えたところに届くものがあって欲しい、届くと実感したいという願いが強いですが、心意気も大切ですよね。気持ちを忘れないでと言っていただけたこと、嬉しいです。ありがとうございます。

植物の側が人間を畜産している、という見方は私は賛同できるところもあります。詳しくは無いのですが、植物の果実などはある意味でそれが食べられて子孫に繋がることを前提とした生存戦略ですよね。もちろん、果実ではなく本体の命を刈り取ろうとすればその生き延びようとする力に反することにはなりますが……。(フルータリアンという立場もありますね。原典に当たった訳では無いので真偽不明ですが宮沢賢治によると「それでも微生物を殺している」との言明もあったらしいです。)

数日、数ヶ月、あるいは数年で答えが出る問いのようには思われないので、気長にやって行きたいですが、その間にも殺生を重ねてしまうのは本当に心苦しいです。生死を問わず、条理を超えて、すべてが慈悲によって救済されて欲しいです。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ