意図しない他害(迷惑)は重いのでしょうか
仏教用語に疎いので、誤った表現をしている可能性があります。ご了承下さい。
長文なので、質問から先に書きます。「仏教では自分の知らないところで迷惑をかけていたかもしれないと反省や懺悔を行うことは、自分がどこで何をしてだれを苦しめたのかについて一切知らない場合でも有効ですか?」
この質問に至った経緯;
ある記事で、「お釈迦様は意図した悪より意図しない悪の方が重いとし、例え話として『熱い鉄球だと知って触る者より知らずに触る者の法が遠慮なくつかみ、大やけどをするものだ』をあげていました。」ということが書かれていました。
この話に納得した私は、意図しない悪を減らそうと意気込みましたが、そもそも意図しない悪というのは自分が意図していないからこそ、どこまで探求しても自力では見つけられず、その悪そのものは他者に指摘されるまで待つしか発見方法はないのではという考えに至りました。
気を遣い指摘しない人や言葉を使えない動物は直接「〇〇をされると迷惑です」、「あなたの発言が彼を傷つけています」と伝えないことが多々あります。
ここから、意図しない悪は自分では気づけないため、自分ではどんな内容か分かっていない何かに反省をし、懺悔をすることしか自分にできる事はないと結論づけました。
これは自分の罪状が何なのかを教えてもらっていない囚人が「自分が何をしたかよく分からないが反省しています」と主張するのと同じであり、余計に悪い行動を取っているように感じられます。
そこで、改めて質問です。「仏教を学べば、人や動物の心を読むことが出来るようになるのですか?そして仏教では自分の知らないところで迷惑をかけていたかもしれないと反省や懺悔を行うことは、自分がどこで何をしてだれを苦しめたのかについて一切知らない場合でも有効ですか?」
私の仏教理解に誤りがあると思うので、私のこの主張のどこで間違いが起き、おかしな結論にたどり着いてしまったのか、智慧をお借りしたいと存じます。
父母がおり、上の兄弟が一人います。現在高校に通っています。性格は鈍感なタイプで天然かもしれません。
他者に迷惑をかけたくないという思いが慈悲でありながら煩悩でもあるのかもしれません。
お坊さんからの回答 3件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
忘るる 和する 和するrr… (´ー`)✨
人間が人間のルールで自分を裁こう、縛ろうとすれば、人間の縛りの領域から出でることがありませんので、どうしても無理がたたる。
懺悔とは、なにか。
そもそも人はもともと人間世界の生活上のルールにおいて誰もが完璧ではなく、至らぬことばかりです。だから自分が気づかない内に人さまにご迷惑をおかけしてしまうことが多数あるものですからこそ、自覚していることも無自覚なることであっても共に懺悔するのです。
その際に、反省や感謝の祈りを捧げる。支えてくれてありがとう。至らぬことばかりで申し訳ない。
それは、心をより豊かなこころへと向かわせて、これからより良い心になる、進んでいくための善き導きの精神としてのお祈りの行でもあります。
決して、そこでTHE ENDではありません。
その際、大切なことは人間の価値観に縛られなくなり、悪いこと、罪業ばかりではなく、良い事、上手く言った事も共に手放すことが大切です。
相対する価値観の中で片方だけを握っていれば、それによってまた自分を罰するようになったり、聖なるもの以外は間違ったものだと誤解する心理も生まれるからです。
たとえば成功だけを願う人勝ちだけにこだわる人はそれ以外は罪悪と思うでしょう。
オリンピック選手や駅伝選手たちは通常の人たちよりも運動能力ははるかに高いのです。ですが、そんな優れた力を持っていながらもですよ?1位になれなかった、責任ある試合で自分のせいで迷惑をかけてしまった、負けてしまったとなると、自分のせいだと自分を責めるようにもなるものです。
悲しいではありませんか。
せっかく、長年体を鍛えても、そこで快く負ける、潔く負けるという気持ちが無ければ、心は即地獄行きです。
だからこそ剣道や柔道など❝道❞のように、勝ち負けや優劣無く、自分自身のその時のありようを全うすることが勝敗や優劣のない「法」に基づいた「道」の世界なのです。
もともと物事には「善悪」が最初からあるのか?と問うことです。
試しに家庭にあるものを見てよい悪いの限られているものがあるかをよく考えてみることです。
すると、どんなものも、ことも、事象にも、元々善悪があるのではない。
時と場所と状況によって、水も雨も害となり、益となるということが見えてくるでしょう。
仏道における懺悔も正見もみな自身の苦を離れて、自分も他者も救うためにこそあるのです。
菩提心を強く持ちましょう。
周りの人や動物とのコミュニケーションを大切に
ご質問ありがとうございます。
多くのお坊さんが今までの行いに対して毎日お勤めの中で懺悔をしています。自分自身を顧みる、そういう意味では有効なことです。ただし、被害者がいるのなら被害者にとっては全く無効なことです。被害者がいるのなら謝罪と償いが必要になります。
では被害者がいるかどうかも分からない場合はどうでしょう。
状況や接した人をよく観察したり、会話の中で被害を受けていないか確認したりするしかないのではないでしょうか。自分のことばかり考えずに周りの人のことも考えることが大事だと思いますよ。
動物に関しては動物に関する知識を増やしたり、環境や状況や様子をよく観察するしかないですね。お坊さんでも飼っているペットの心は分からないです。
お釈迦様が意図しない悪の方が悪いと言ったのは、意図しない悪は反省することが無く繰り返してしまうからですね。でも悪いことは周りに何かしらの影響を及ぼしていますから周りをよく観察したり周りの人と会話していれば自分の行いが悪かったことがあればそれに気が付くことができると思いますよ。気が付いてから反省を、必要なら謝罪と償いもしたらいいと思いますよ。
仏教知識、智慧がある方が良い
例えば、不殺生戒を守った方が良いという仏教知識を持っている人が、それでもやむを得ず殺生してしまったり、うっかり無意識に殺生してしまう場合が「熱い鉄球」だと知っているケースではないでしょうか。
そして、不殺生という知識・智慧が全く無い人が殺生する場合が「熱い鉄球」だと知らないケース。
例えば、お酒は身体に悪いという知識がある人の飲酒と、そのよう知識が全くない人の飲酒とでは、前者の方が飲む量に気を付けるでしょう。
ですから、悪行為の被害の大きさという点では、まずは仏教知識を持つことが大切です。
で、懺悔については、意図しなかった罪や、はるか昔の無数の前世の、忘れている罪も含めて、全ての罪を懺悔すれば良いと思います。
懺悔により罪を恥じたり恐れたりして反省することは、功徳(悟りやすい性格になる善い癖)につながると思いますよ。
そして、仏教の教えを思い出すことや、仏法僧の三宝を尊ぶことも功徳になると思います。
質問者からのお礼
回答ありがとうございます。
私にできることは、他者を観察し、確認したり理解するのみだという聖章様の回答で注力する方向を理解できた気がします。
自己と周りの素振りをバランスよく観察することを次の目標にしようと思います。
お時間と智慧を分けてくださり、ありがとうございました。
願誉浄史様
回答ありがとうございます。
元々の話(お釈迦様の言い伝え)の意図を誤解していたことを和尚様の回答から再確認しました。
善意がお節介にならぬよう、生き物と他者が何を求めているかを考え、自分の事を反省し、そして行ってしまった事に気づけるよう努めていきたいと思います。
貴重なお時間をどうもありがとうございました。
丹下 覚元様
回答ありがとうございます。
和尚様の回答のおかげでよりよい理解ができました。
法律のような堅い物とモラルを同一視してしまったが故に当初の意見は極端な意見になっていたのだと思います。
人に優しくする動機を試合の勝ち負けのように捉えてしまっていた気がします。
「周りより良い人になろうではなく、人を幸せにしよう。」そうもう一度心に唱えたいと思います。
又、和尚様の”自覚していることも無自覚なることであっても共に懺悔する”この言葉も大切にしていきたいです。
分かりやすく詳細な解説を下さり、ありがとうございました。



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