いつか報いを受けるのではと不安が離れない回答受付中
お世話になります。
相談を失礼いたします。
私は、今までに自分がおこなった良くない行動が、身内に降りかかっているのではと考えて怖くなってしまいます。
数年前に、まだ1歳だった愛猫を原因不明のまま急に亡くしました。
その頃の自分自身の生活を顧みると、決してよろしくない(他人に迷惑をかけたり傷つけてしまう行動をとってしまっている)状態で、その自覚と罪悪感がありましたので、「その報いを受けたのか」と今も感じています。
今も必ずしも自分が正しく生きていられていると思えず、今の私の間違った行いが、次はどんな形で誰に降りかかってしまうのだろうと恐れています。
(親が病気になったらどうしよう、またペットに悪い影響があったら…など)
因果応報を常に恐れている状態で、常に何かしらの不安が付きまとい、どうしたらいいのかわかりません。
自分勝手な相談ではございますが、どうかご助言いただけますと幸いです。
お坊さんからの回答 3件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
ご相談いただき、ありがとうございます。
仏教にはたしかに「因果の道理(いんがのどうり)」という教えがあります。
これは、「原因があって結果がある」というごく自然の法則です。
けれど、それは決して「罰が当たる」といった単純な意味ではありません。
まず、お伝えしたいのは、あなたの心に「申し訳なかった」「反省している」と思う気持ちがあるということ自体が、すでにとても尊いことだということです。過去の自分の行動に向き合い、後悔し、深く考えておられる、そのまっすぐな姿勢は、何よりも大切なこれからの「因」となっています。
また、亡くなった愛猫のことを思い出すたびに、「あのときの自分のせいで…」と自責の念にかられるとのこと。でも、命には寿命がありますし、原因がわからなかったとしても、それが“あなたの報い”だったというように考える必要はまったくありません。
むしろその思いは、「あの子をとても大切に思っていた」からこそ湧き上がるものなのではないでしょうか。悲しみと、愛情と、後悔が入り混じったまま時が止まってしまっているのかもしれません。
不安や恐れを抱えているご自身に対して、
「また同じようなことが起きるのではないか」
「自分が悪いからこんなことが起きたのではないか」と思ってしまうと
どうか、その気持ちを否定せず、まずは『そう思ってしまう自分』にやさしく寄り添ってあげてください。
仏教では「懺悔(さんげ)」という心の在り方も大切にします。これは「ひたすらに自分を責め続ける」ことではなく、過ちに気づいたら、その事実を素直に認めて、
これからどう生きていくかを見つめ直すという、前向きな行いです。
あなたの今の思いは、まさに懺悔のこころそのもの。
だからこそ、今ここから「少しでも良き因を積む」ことができるのです。
たとえば、小さな親切をしてみる、誰かの話に耳を傾けてみる、大切な存在を想って手を合わせてみる。そうしたひとつひとつの行いが、あなたのこれからの人生を作っていきます。
不安な気持ちを完全に消すことはできないかもしれません。でも、「その不安の中でも、私は誰かのために、何か小さな善い行いを選べる」、そう思えるだけで、人生は少しずつ明るい方向へと動いていきます。
どうか、過去の後悔に閉じ込められすぎないでください。
応援しております。
因果応報の本義
仏教で説かれる「因果応報」とは、「善因善果・悪因悪果」、つまり原因と結果はつながる、という大きな法則です。しかしこれは「自分の行為がそのまま他者の不幸として現れる」という単純な仕組みではありません。誰かの病気や死、災いを“罰”のように直結させて考えてしまうと、かえって心を苦しめる執着になってしまいます。
真言宗の教えでは、因果は広大で複雑に絡み合っており、私たち一人の行為がそのまま他者の苦しみの原因になる、という単純な図式には収まりません。大切なのは「悪業を恐れる」のではなく「善業を積むことに心を向ける」ことです。
・恐れから祈りへ
「もしまた大切な存在を失ったら」と思う心は、愛情が深いゆえのものです。その愛を恐れに使うのではなく、祈りに変えていただきたいのです。毎朝一言でもよいので、亡き愛猫やご両親、周囲の方々の安寧を祈る。それがすでに立派な善行です。その祈りの積み重ねが、あなたご自身の心を静め、安らぎを取り戻してゆきます。
・自分を責める心への向き合い方
「自分のせいで…」と責める気持ちは、とてもつらいものです。しかし、仏教では「懺悔(さんげ)」という修行があります。過去の過ちに気づいたならば、それを悔い、二度と繰り返さないと誓う。そこで心を新たにすれば、その行いは「悪業」として固定されるのではなく、「気づきと善業への転換」となるのです。
真言宗では「懺悔文(さんげもん)」を唱える実践もあります。声に出すことが難しければ、日記や祈りの中で「私は過ちに気づきました。もう繰り返しません」と言葉にしてみてください。それだけで心は少しずつ軽くなります。
・今なすべきこと
これから大切なのは、「不安を恐れること」ではなく「慈しみを行うこと」です。ペットや親御さんに心を寄せ、相手を思う時間や言葉を大切にする。その一つひとつが仏の道であり、因果をよい方向に育む営みです。
どうかご自身を過度に責めすぎず、祈りと善行に心を向けてください。恐れから解き放たれる道は、すでにあなたの中に備わっております。
合掌
安心なさって下さい
拝読させて頂きました。
あなたは自分の悪い行いのせいで身内や周りのものに報いがきているのではないかととても不安に思っているのですね。詳細なあなたや周りの人達のことはわからないですけれども、あなたがとても不安に思っていること心よりお察しします。
あなたが不安に思っていること(親が病気になったらどうしよう、またペットに悪い影響があったら…など)はあなたの悪い行いによって起きるものではありません。あなたの悪い行いがあなたの身近な方々に病気や災いや祟りを起こす様なことはありません。どうかご安心なさって下さい。
あなたが自分の悪い行いを悔やんでいるのであれば、あなたが思ったことやなさったことを心から仏様や神様やご先祖様手を合わせて告白なさり、心から反省し仏様や神様やご先祖様に懺悔しましょう。あなたがなさったことで被害を受けて方々に心の中からでも誠意をもって謝りましょう。そしてそのような悪意や悪行をなさらないように心から仏様や神様やご先祖様にお誓い下さい。
仏様や神様やご先祖様はあなたの思いを全て優しく受け止めて下さいます、あなたのことを全て受け入れて寄り添い、お許しなさって下さいます。
仏様や神様やご先祖様はあなたをお救いなさって下さり、あなたを善き方へとお導きなさって下さいます。
私達は誰しもが大なり小なり悪意や悪言や悪行をしてしまうものです。そんな愚かな私達を仏様や神様やご先祖様はいつも優しくお見守りなさって下さり、悪しき方から善き方へとお導き下さり、お救いなさって下さいます。
あなたが今までの悪意や悪言や悪行を心から反省し懺悔し改善なさり、これからの未来を善き考えや言葉や行いを日々心掛け、皆さんとお互いを心から思いやり助け合い健やかに毎日を生きることできますように、あなたが仏様や神様に救われて安心して毎日を生きることできますように、切に仏様や神様やご先祖様にお祈りさせて頂きます。至心合掌
質問者からのお礼
釋兼高様
ご回答いただきましてありがとうございます。
「不安の中でも少しでも良き因を積む」
こちらのお言葉がスッと腑に落ち響きました。
すぐに捉え方を変えることは難しいのかもしれませんが、少しずつでも自分の力で積み重ねていけるものとして、心に留め置きたく思います。
この度は本当にありがとうございます。
鈴木秀彰様
ご回答いただきましてありがとうございます。
今の私の考え方について、「かえって心を苦しめる執着となる」とのご指摘にハッといたしました。
これまでは「自分に対する報いなので考え続けて悩んで当然」と思ってしまっていたように感じます。
そうではなく、「周りの人や亡くした愛猫を思う時間を大切にする」
このように捉えられていなかったとも気づきましたので、少しずつでも変わっていきたく思います。
この度は本当にありがとうございます。
Kousyo Kuuyo Azuma様
ご回答いただきましてありがとうございます。
今抱えている不安について、寄り添う優しいお言葉をかけてくださいましてありがとうございます。
これまでにご迷惑をかけてしまったことを反省しながら、より善い行動や言葉を心がけることを、今からでもできることとして大切にしていきたいと思います。
この度は本当にありがとうございます。