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現世で報いを受けたら死後はなし?

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因果応報で現世、つまり生きているうちに報いを受けた人は例えば極端な話地獄に落ちることはないんですか?
勿論、償いきれない分は地獄で、、って話になるけど。
やった事以上の結果は返ってこないんですよね?
であるならば現世で十分過ぎるほどの罰を受けた人間は死後、悪い所に行くカルマはもう清算したからって事でお咎め無しになるのですか?

2025年9月15日 16:10

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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

業は単純なポイント制ではありません

後世がどのような形の生命になるかは業によりますが、これは単純なポイント制ではありません。今世の生命が尽きた時にどのような「状態」であったかによります。
ヒトの一瞬一瞬の振る舞いすべてが業の種になります。その一つ一つが善であるかもしれませんし悪かもしれません。そのすべてが複合した結果、死ぬ瞬間の状態が決定します。さらに、今世にこの形の生命で生まれてきたこと自体も因のひとつとして影響しますから、間接的にも前前世、前前前世の振る舞いもまた影響を残すことになります。また、業は本人の振る舞いを種としますから、外部から受けた事柄は基本的には本人の業とは関係しません。
たとえば、「今世で人を殺した」→「今世で死刑になった」→「罰を受けたからチャラ」とはなりません。「今世で死刑になった」ことは、今世でおかした悪の果として本人に報われたものではありますが、それ自体は外部から受けた事柄であって本人の振る舞いではありませんから、後世に向けての業の種とはなりません。
逆にいえば、死刑になる瞬間「ああ、悪いことをした本当にすまなかった」と懺悔しながら死ねば善の業の種になるかもしれませんし、「ちくしょう。バレて損した。あの刑事の野郎、裁判官の野郎、恨んでやる」と反省しないまま死ねば悪の業の種になるかもしれません。
あくまでも自業自得であり、”やった事以上の結果は返ってこない”のは確かにそのとおりですが、それは善業も悪業も同じだということです。

2025年9月16日 8:55
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有り難し
おきもち

新潟県上越市、龍興山宗恩寺住職。

悪行を重ねた者はこの世でもあの世でも苦しむ

題名のとおりです。
釈尊は「悪いことをなす者は、この世で悔いに悩み、来世でも悔いに悩み、ふたつのところで悔いに悩む」と語っています。
むかし、豚肉屋のチュンダは、肉を膨らませるためにこん棒で打ち、熱湯を飲ませて洗浄するという残忍極まりない方法で豚を屠殺する一方、釈尊に対し匙一杯の布施食も捧げませんでした。
やがてチュンダは病気となり、阿鼻地獄の炎熱に苦しみ、豚のように泣き叫びながら家中を這いずり回りました。
チュンダは七日目に死んで、阿鼻地獄に生まれ変わりました。

2025年9月15日 19:08
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有り難し
おきもち

社会人生活を長年送った後、曹洞宗の僧侶となりました。仏教の教えの一つ一つが、かつての私自身の場合がそうだったように、相談者の皆さんの生き辛さの解消につながるものと信じています。愛知県内にご住職のいないお寺がありましたら、ぜひご紹介ください。

「因果応報」と「死後の行き先(地獄・極楽)」の関係

とても大切なご質問をありがとうございます。
仏教の中でもよく議論されるテーマです。僧侶的な視点から整理してお答えします。

1. 因果応報の基本
仏教の因果は「やったことと同じだけ返ってくる」という単純な算数ではありません。
善因善果・悪因悪果といっても、その「果(結果)」がいつ・どのような形で現れるかは、人智では測れないとされます。

今世で現れるもの(現報)

次の世で現れるもの(生報)

さらに後の世で現れるもの(後報)

と分けられ、必ずしも「現世で全部清算される」とは限りません。

2. 「やった事以上の結果は返らない」のか?
仏教的にいえば「一の悪因には一の悪果」が原則です。
ただし、その「一」が人間の目で計れないほど広がりを持つことがあります。

たとえば、ある人の悪行が他人に波及し、その人がまた他人を傷つける─その連鎖によって果は大きく膨らむことがあります。
つまり「やったこと以上の罰」というより、「一つの行為がどれほどの因果を生むか、人間の計算では測れない」と理解する方が近いです。

3. 現世で大きな苦しみを受けた人は地獄に行かないのか?
仏教の立場からは、現世で苦しんだから即「お咎めなし」になるとは言い切れません。
なぜなら「報い」はバランスの問題ではなく、「心の状態」と結びつくからです。

苦しみの中で心が荒れ、さらに恨みや憎しみを募らせたなら、悪因は積み重なります。

苦しみを受けながらも、反省・懺悔・慈悲を育んだなら、むしろその苦しみを通じて清められることがあります。

つまり、外から見て「十分罰を受けた」と思えても、その人の内心の受け止め方によって、カルマの清算度合いは変わるのです。

4. 結論として
仏教は「因果は必ず応ずる」と説きますが、そのタイミングや量は人智で量れません。

現世で大きな苦を受けても、それが「心をどう変えたか」で、死後の行方は違ってきます。

苦しみの中でも「懺悔し、慈しみを学ぶ」ことが、死後に安らぎの世界へと導かれる大切な因となります。

5. 僧侶としての一言
仏教の教えの根幹は「過去を断罪すること」ではなく「今ここから心をどう調えるか」にあります。
報いを恐れるよりも、「今この瞬間から善き因を積む」ことに心を向けることで、未来も来世も安らぎに近づいていきます。

合掌

2025年9月16日 12:59
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有り難し
おきもち

個別相談可能
仏教×対話×ビジネス。僧侶・理学療法士・プロファシリテーター。死生観から整えるコンサルタント。仏教と対話で導く、リーダーのための内省と再構築。ビジネスという営みを通じて、人が本音と出会い、本来の個性で生きる場をひらいています。 ※お坊さん回答の中に「鈴木光浄」がおりますが当初諸事情がございまして私が回答したものでございます。そちらもあわせてご参照ください
職業柄、人生相談はこれまで多数受けてきました。 ぜひご自身の本音を出してください。向き合ってください。 私は伴走させていただきます。 理学療法士でありますので、これまで急性期から終末期まで患者さんを担当。 町の診療所から在宅までキャリアを築く。 2歳から108歳まで患者さん担当。 カウンセラー、コーチ、コンサルタントでもありますので メンタルヘルスから新規事業、マネジメントまで相談対応可能。 ビジョンワークはライフワーク。

質問者からのお礼

回答ありがとうございます。
チュンダについて軽くネットで調べたのですが仏陀はチュンダの事を凄く褒めてる様な事が書いてありました。
それとどこにも地獄に落ちたと書いてありませんでした。
どこまでが本当でネットが間違えてるのか?分かりませんが回答ありがとうございました。

百目鬼洋一様、回答ありがとうございました。
業(カルマ)というのは自分が思ってる以上に複雑なんですね。

鈴木秀彰様、回答ありがとうございました。
過去を悔いるよりも変えられる未来に目を向ける大切さを改めて感じました。
気づかせて下さり誠にありがとうございます。

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