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「自分を愛する」とは、具体的にどういうことなのでしょうか。

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自己啓発書やビジネス書などで、時折、「自分を愛する」という表現が出てきます。
「自分のことを好きになれば、人のことを愛せるようになります。
だから、まずは自分を好きになりましょう。」ということらしいのですが、「自分を愛する」という表現が抽象的すぎてピンときません。
10代の頃より自信が持てない生き方をしてきたので、「自分のことを愛してあげましょう」と言われても、それが出来たら苦労はしない、と否定的に捉えてしまいます。

たしかに「自分を愛し、人に見返りを求めない、無償の愛を捧げられる」そんな生き方が出来たら良いなとは思うのですが、上記のように最初の段階で躓いてしまっているため、なかなか実践できません。
「自分を愛する」ということは、具体的にどのような心のあり方を指すのでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

まず自分をDISらない なにもしなくても平然

愛の反対は無関心ヨ、とマザーテレサは言われました。
愛の反対はもちろんそればかりではなく、いじめ、さべつ、暴力、犯罪、ハラスメント、苦しめ、DISり、イヤなことをする、テポドン、サリン、テロ、戦争…的な行いです。
総じて、自分をいじめるようなことをしない。
まず自分をDISることをしないという事が自分を愛する具体的な行為のはじめの一歩目でしょう。
自分に自信の無い人は自分いじめ、自己DISりが激しいです。
それが自己否定や、自分をつまらない人であると思うネガティブなエネルギーとなるのです。
プラス思考であれば、プラス思考になれる最短ショートカットは自分にネガティブな扱いをしないことです。否定、非難、批判などネガティブ・マイナスな扱いは自分を考えの上で苦しめるものです。
自分を愛すると言っても「愛・愛・愛」と愛を連呼する人は逆に不自然に感じます。
お釈迦様も自費慈愛の人であっても「愛こそすべてよ♡」みたいな♡感たっぷりな疑似愛の人ではなかったはずです。
仏教的には、そのままの自分をそのままよいとも悪いとも愛する友嫌うとも言わないことです。
坐禅や念仏中に「オレは俺を愛してる おれはオレを愛してる」とか言ってる人がいたらチョト違うって思いません?
歩くときに自分に負担なく歩く。
言葉を話す時、自分を大切に。
わたし的には本当に一人になることかなぁと感じます。
誰といても一人でいられること。
人といることでやたらと気を使う人がいます。
人と比較したり、気を使ったりで、自分の素のままでいられない人。
どこかに自分に作り事や無理が生じていれば自分に嘘をついた行為自分を、そのままの自分でいられない、何らかのよそおいのある行為だからです。
ですから、自分を愛するという行為ははじめの一歩目を踏み出す前のままでいる。そのままでいるという事がそのまま自分を愛することになるのです。
何かを為さんとすれば本来の自己を離れる。
為すこと無き自己は為され無き故に自己を傷つけることすらしない。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下 覚元さん
ご回答ありがとうございます。
丹下さんからいただいたご回答の中に思い当たる点が多々ありました。
仰るとおりでございます、私は今まで何かと己をDisる生き方をしてまいりました。
私だけでなく多くの人が、謙遜のつもりか己を卑下する物言いをしてしまいがちですが、そういった在り方が余計に己を苦しめているのでしょうね。
己を傷つけることをやめる、それが第一歩なのですね。さっそく本日から気をつけるようにしたいと思います。
ありがとうございました。

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