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何のために強くなるのか

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嫌なことがあったり、つらいことを経験したりすると、『そういう経験があるから人は強くなれる』という言葉が聞かれることがあります。『神様は、その人に乗り越えられない試練は与えない』とも。

だけど私は思うんです。。

なんのために、人は、強くなるのですか?

スポーツ選手であれば、メンタル強化してその世界で活躍することができるかもしれません。

戦国時代であれば、技を磨いて生き延びることができることができるかもしれません。

でも、現代を生きる多くの日本人にとって、強さとは何ですか?何のためですか?

強さの意味を、我の強さ、社会的に反する強さ、権力の強さ、という形で表している人もいると思います。
嫌なつらい思いをしてきた自分だから、いっそう他人に嫌な思いをさせる人がいます。言動が強く荒くなることで心に盾を作り、自己防御に走る人もいます。

本来の強さとは、芯の強さでしょうか。心の強さでしょうか。
でも、どこまで強くなればいいのですか?
どこまでも強くなったところで、人生は80年ほど。
それならば、嫌なつらい思いをしない人生のほうが、みんな強くなくても、みんなが優しい世界であれば、いいのではないのですか?

大事な人を守るために、強くなるのですか?
それでも、自分の心すら守れないときがあります。
それなのに、成長するため、強くなるため、つらい嫌な経験はしたほうがいいのですか?

私の日常はささいなことかもしれません。
でも、たとえば、犯罪に合われた方にとって。。胸がひきされるような苦しい思いをしたというのは、成長できて強くなるために、肯定化されるべき経験なのですか?

また、たとえば外から『よりいっそう人の気持ちが理解できるようになる』と言われたところで、そういうことをいう人は、同じようなつらい経験を味わいたいと思うのですか?

私がいつも矛盾を感じるところです。。

人生そのものが修行、そういうことでしょうか。。でも修行したその先には、なにがあるのですか?また、生きている間に、報いもあるのですか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「柳の人生」を目指しませんか?

 ご質問が多岐に渡るもので、私などにはきちんとお答えが出来ないかも知れません。
 御自身が自分自身の弱さを感じておられるのでしょうか。強くならなきゃいけないと思い、努力もしてきたけれど強くなれなくて、こんな自分はイヤだ。そもそも人間は強くならなきゃいけないんだろうか? 一体強さって何なんだろう…そんな疑問を頂いておられるのでしょうね。
 強くならなくて良いじゃないですか…強くなれれば それでも良いし、そうでなければ弱いまま生きていく。善し悪しは別にして弱いまま生きていくしかありませんよね。それはイヤだ。自分がみじめだ…ならばやっぱり強くなるしかないでしょう。
 仏教では強さではなく悟りを求めます。そもそもの人間の強い弱いを離れようという教えです。強いも弱いも相対比較の世界。迷いの煩悩の世界ですから…そういう世界を離れよという教えです。
 柳の枝は強いですか、弱いですか? 風に流され、風に対して為す術無いように見えますが、折れてちぎれて飛んでいくことはないですよね…結局 強くはないし弱くもありません。
 声高に自己を主張しない世界です。強固に風に立ち向かうのではなく、風に身を任せていく世界です。それで折れず枯れず生き長らえていけるのだから、柳は柳としてちゃんと生きているのです。
 誰に対して、何に対して怒りをお持ちなのでしょうか。
 もし、その対象が御自身であるならば、その思いを捨てて下さい。自分は強くあるべきという執着の心を捨てて下さい。
 柳を思って生きて下さい。仏様を思って、仏様を依り処として生きて下さい…頑なな自分自身ではなく。
 その時、柔軟な 人生の強風にも負けない御自身に出遇えるはずです。

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おきもち

意味があって物事があるのでなく、物事を私がどう捉えるか

嫌な事・辛い事は「強くなるため」や「よりいっそう人の気持ちが理解できるようになる」ためにあるわけではありません。
また、なにか神様など運命の大いなる支配者がいて、上記のような意味・目的を人々に課すために嫌な事・辛い事を起しているわけでもないでしょう。

そうした意味・目的が先にあって嫌な事・辛い事があるわけではありません。仏教は物事は原因が合って起こる、様々な要因・条件・環境がととのって起こると説きます。その起こった出来事にいい・わるいの判断をくだしているのはその時の私なのです。はじめからものごとにいい・わるいがあるわけではありません。

しかし、嫌な事・辛い事があった時に本人がそれをどのように捉え、乗り越えるかという問題はあります。
おっしゃる通り人からそのように言われると「じゃあ代わってくれよ」となりますが、実際には代われない本人としてはそこに何らかの意味を見出して乗り越えるしかないのです。
外から人にどんな優しい言葉や同情や哀れみをかけられようが、本人がその出来事を受け入れるしかないのです。

私としては「強くなるため」「人の気持ちを理解できるようになるため」というのは外からの意見ではなく、本人の自覚として成り立ちうる考えだと感じます。何らかの意味をそこに見出さないと本人としては受け止めきれないからです。

言うならば、嫌な事・辛い事はないほうがいいです。私もそう感じます。しかし実際には起こる出来事は選べず、起こった出来事にいい・わるいの価値づけをする私の煩悩もなくなりません。
だからこそ、他の誰でもないその出来事の当事者の私がそれをどう捉えていくか、そして人にどう伝えていくのかが問われているのです。

人生は修行するためや強くなるためにあるわけではないでしょう。しかし何のためかわからなくとも、はからずも私たちは人生をいただいたのです。そして人生で起こる出来事も選べないのです。

それをどう捉えるかかはりりー様の自由なのです。そしてその捉え方が多くの人の共感をよび、人々を救うものならば周りに伝えくれたらみんなハッピーになれます。
しかしまずはどこまでも本人がどう捉えるか。りりー様の感性を大切にしてください。そしてその感性では受け止めきれない時は、もしよろしければ仏教の扉を叩いてみてください。

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おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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質問者からのお礼

お二人のお坊さま、こんなにご丁寧に真摯に、お答えいただけてありがとうございます。
自分では考えもしなかった視点と、自分の思考がどこかへ自分勝手に迷い込んでしまっていたことに、気がつけました。
自分の中の心の弱さ、ずるさ、それに伴ういいわけ。。。そんなものに、辟易してしまうことがありました。

でも、私とはもちろん違う視点のお考えに、心が軽くなりました。
柳のような人生を、強さではなく悟りを。。
物事が、私をどうとらえているか。。。
心の中で呼びかけながら、歩んでいこうと思います。
本当にありがとうございます。

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