罪悪感は他者から与えられるもの?
こんにちは。いつもありがとうございます。
私はよく子供の頃からの苛めを思い出して辛くなります。
周りからはどれだけいじめてもいい人でしかないんだと思えて辛いです。
死ねばみんな同じ骨になるというのに、人を見下しいじめにはしる人はいじめを罪悪だと思わず「あいつはいいねん」と言います。
小さい頃から苛められていました。
幼稚園の時は、「あいついじめるのオモロイから明日もいじめよう」そういって殴ったり蹴ったり髪を引きちぎられたり帰りのバスを待っている間毎日そうでした。
先生も止めませんでした。
バスを降りる直前にずっと泣いている私に向かって「いい加減に泣き止みなさい!笑いなさい!」と先生は怒鳴りました。
怒られて、泣いている自分が悪いのかとムリに笑うと「オモロイから明日もあいついじめよう」
と言っていました。
とうとう耐えられず、ある日泣き止みなさいと言われても余計に大泣きしてバスを降りると待っているお母さんたちがざわつきました。
私は母にいじめられて殴ったり蹴ったりされたので先生にその子らを怒るように言ってと母に言いましたが、「そんなんいわれへん。」と普通に母は言いました。
幼稚園の先生は「転んだんです、転んだんです」と何度も叫んでいました。
横にいた他のお母さんが自分の娘に私の言っていることは本当かと聞き、○○君たちが毎日蹴ったり殴ったりしていたといいました。
でも私は謝ってもらえませんでした。
次の日もまた殴る蹴るの暴行を受け泣いているといつもと違って先生が来て「泣き止みなさい!」と私に怒鳴り、「あんたらもいい加減にしなさい」とどなりその子たちは「ちぇ、オモロイのに。」と言ってやめました。
子供の頃からこんなおもいをたくさんしています。
苛める人は苛めても悪いと叱られなければ面白いと言って人の気持ちなんて考えません。
人の罪悪感は人に攻められることで持つもので自分の道徳心で強く持つことは人間にはムリなところがあるのではないか、私はその対象なのだと辛く思えます。
謝ってもらえなかったからか、ずっと心の重りになってとれず忘れられません。
いじめた方はとっくに忘れて罪悪感も持っていないのだろうと思うと辛くてたまりません。
未だにそのおもいが現実に支障をきたします。
どうやってこういうおもいを断ちきったらいいでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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罪悪感・慚愧・懺悔
らら様
川口英俊でございます。問い拙生のお答えでございます。
「罪悪感」を持てれば、仏教的に申せば、慚愧・懺悔することによって、善い行いに努めれることに資するものとなりますが、私たち凡夫においては、なかなか持てないがゆえに、愚かにも悪い行いを繰り返してしまうものでございます。
人の悪い行いについては、人のふり見て我がふり直せ、反面教師、他山の石として、自分を律するためにも役立てたいところでございます。
とにかく悪い行い、悪業は必ず、結果の因縁(原因と条件)として、やがて必ず悪い結果へと繋がるものとなります。いじめた者たちも、必ずそのことによる悪い結果は受けることになります。
もちろん、その者たちが、慚愧、懺悔して改心して、善き行い、善業に努めれることによれば、行い、業の因縁のバランス次第により、悪い結果にならないことも考えられますが・・
そのためには、もちろん罪悪感による慚愧、懺悔が必要となります。それがなく、余程に他に改心があり、善業を積むことになっていない限りは・・やはり、悪い報いは避けられないものであると思っておくのが妥当でしょう・・
むしろ、悪い行いについて、いつまでも罪悪感を持てず、慚愧、懺悔できずに、愚かなことを繰り返して悪い結果へと至り続けている、可哀想な者たちであると哀れんであげて下さいませ。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
川口 英俊 様
ご回答ありがとうございます。
損な役回りばかりで酷いおもいをしてきて報われたことがありませんでした。
罪悪感は持てなくても、その逆でも問題がありますね。
私は自分に押し付けられた罪悪感を酷いことをして来た人に返して楽になりたいと考えてしまいます。
しかしきっと、それが出来なくても苛めていた人には良いことないはずですよね。