いつまで努力すればよいのか
この春、大学生になった者です。
私は高校一年生の時から行きたいと思う大学があり、周りに流されず勉学に励んでいました。
また、部活動にも所属していたので部活動にも励んでいました。
そこで、どちらも努力を怠らずにしていたせいか担任の先生には勉学での良い成果を部活動の顧問の先生には部活動での良い結果を求められました。
私はどちらもよい結果を残せるほどの器ではないと思ったのですが、ここで諦めずに努力すれば何か良いものが残るのではないかと思い、どちらも結果を求める道を選びました。
しかし、部活動では良い結果を残せず、何故私はどちらも結果を求める道を選んでしまったのかと高校三年生の5月に思い詰めてしまい、精神疾患を患ってしまいました。
そこで一度立ち止まろうと思い、高校三年生の5月に自分の思う楽な生き方をしてみました。
そうしてみたところ、楽に生きようとしても疲れるし、目標のない人生は虚無感と孤独感しか残らないと感じ、また勉学に励み始めました。
精神疾患から立ち直り、勉学に励んだものの志望していた大学には受からず、まさに『二兎を追う者は一兎をも得ず』になってしまったのです。
周りの人には、お前はできるんだから努力すれば志望していた大学じゃなくても大丈夫だ。と言われます。
しかし、正直、私は成功するビジョンが見えなくなってしまいました。どうせ上手くいかないのではないか、と考えが邪魔してしまい、努力したくなくなってしまいました。
自分の中では忍耐の三年間で目標のためには仕方ないと縁も切り、楽しみも捨ててきました。
それでも上手くいかなかったので、これからの四年間も努力しなきゃいけないとなるといつまで、どれほど努力すればよいのでしょうか。
もう努力をしたくないし、出来ることならもう
こんな上手くいかない人生なら早く終わらせてしまいたいと考えてしまいます。
私はここからどう生きていくべきなのでしょうか。
長文失礼しました。
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失敗したが故に運が転がり込むこともある。ソースは私
私は大学受験に失敗しました。人より半年早く2年生の冬から受験勉強を始めた私は、4月の浪人生が一緒になる模試で偏差値を10上げ、担任の先生にベタ褒めされ、周りからも羨望の眼差しを受けました。でも、人より半年早く燃え尽き、夏休み以降落ちに落ちました。
受験本番でも7つか8つくらい受けましたが、滑り止めでようやくワラをつかんで止まりました。まわりを期待させた分、余計に情けなかった…
その反動でしょうか、大学に入ってからは取り憑かれたように勉強しました。講義はもちろん、放課後に図書館で夕飯も食べずに自習しました。自習と言うと自発的なようですが、実際は何かに後ろから追いかけられているような焦燥感から、そうしてしまった感じです。今思い出しても気色が悪いですが、当時も気色悪かった。
そんな私が変わったのは2〜3年生の時。経営学の講義で「経営理念が大切」と教わったので、ゼミ選びの時に「ゼミの理念を教えて下さい」と聞いて回りました。たいそう煙たがられましたが、んなこと言われてもアナタ達が教えたんじゃんねぇ…
それは先生がたも承知で、小泉進次郎議員のような爽やかな眼差しで答えてくれる先生もいれば、モジモジする先生もいました。その中で1人だけ、「そんなもの必要無いんですね。アナタ肩に力入りすぎなんじゃない?HAHAHA」とフランクに笑った人がいました。
私はその人について行きました。その人は「ん〜、私のことは先生だと思わないで、頼れるお兄さんだと思ってくれれば良いんです。まぁ、仲良くやりましょう。私のゼミでは時間中にお弁当やお菓子食べても良いですよ。」そんなことを何気なく言う人でした。
いつしか私はあの気色の悪い焦燥感を忘れていました。恩師から何か救いのお言葉を受けたからではなく、その抱擁力に接し続け、徐々に感化されていって。そして私は勉強が楽しくなった…
そんモンですよ、重要なのはどこに行くかじゃありません。人生は誰に出会って、どう接するかです。こればっかりはね、運なんですよ。私は受験に失敗したけど恵まれていました。 一寸先は闇なのに四年間のことなんて誰にも分からない。ただ1つ言えることは、何でもかんでも自分の努力の問題にしてたら外からの出会いを見逃しますぜ。アナタ肩に力入り過ぎなんじゃない?やることやって、あとは運を受け入れれば良いんです。それで充分幸せになれますから。