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怒られてしまった

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有り難し有り難し 15

以前、お稽古に行っていました。
ただ、仕事も忙しく体調も崩しがちで、最後のほうはかなり休みがちでした。

少し体調がよくなり久しぶりに訪れるときに、先生に「何時に伺えばいいですか?」とメールしたら、「今から行きますとメールください。」という返信が返ってきていました。

その次の機会のとき、仕事帰りにお稽古に行こうと思って朝に○○頃行きますとメールしていたのですが、渋滞で仕事にも遅刻するありさまだったので、遅れる旨をメールしました。それには了解です。と返ってきました。

そして、いざお稽古場に行ったのですが。。。

どうやら、私がメールした時間帯、すでにお稽古時間だったらしく(私は知りませんでした)、先生から「お稽古中に、メール返したりしているので稽古前にしてください」と言われてしまいました。そのお稽古中、他の人もいる前でも何度も言われてしまいました。

全く悪意はなかったとはいえ、お月謝を払って好きで通っていたところから、そう言われたことがショックで。。。

そのお稽古中も、私が休みがちでなかなか成長しないため、他の人にご迷惑をおかけしているので努力しなくちゃ、と言われ、もちろん成長を促すための厳しい言葉だとも思うのですが、自分なりに忙しい体調も崩してた中での精一杯だったので、ショックでした。

それ以来、理由をつけてやめてしまいました。それに対して先生からの返信は来ていません。

『道』と名のつくものは本当に厳しいのでしょうし、私に向いてない、と思えばそれまでですが、お金と時間を使った趣味の一環だったものに(その教室も、人は趣味で癒されるものです。と、されています)、最後に嫌な思いが芽生えてしまったことに、後悔やショックがあって。。

こういうとき、どんな心構えでいたらよいでしょうか?
お知恵をお貸しください。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

もったいないねいザマス。

あらあら、ご存じないご様子。オホホホ。
道と呼ばれる世界では叱られる人は先生から❝目をかけてもらっている人❞です。
叱られたモン勝ちといってもいいくらいなンザマスの。
もっといっぱい叱られてくださいナ。
華道では先生から叱られる、指摘を受けることはある意味有り難いことです。
誉れに感じる人もいるくらいです。
まぁ今回の事はあまり関係ないことと言っても、それでも道の中です。
いくら美味しくお茶をたてられたからってその他が疎かでは「道」をならう意味がないでしょう。
道は至る所にあります。
道でない所はありません。
最上無為を道とこそ申します。
あなたが先生から叱られて私見・私憤・私的な思い方をすれば道からはずれるのです。
道を究めるとは自己を極める道です。
自己、もと道中にあり。
もともと人間の見解から離れた世界にあるのです。
あなたが人間の見解を起こした時から先生に対して不信感や、自分だけ責められたような気がしたでしょう。
それが「道はずれ」の始まりなのです。
あなたが、そういう一般的な感性や常識を失っている事をその先生が指摘して下さらなかったら、一体誰が指摘してくれるんざましょ。オホホホ。
あなたの進む道は癒しではないのです。
癒しなんて無意味。
ちょっと癒されたって、チョットツンツンされればその癒しが無くなってしまうなんて道とは程遠い世界ザマス。
道とは救われの道です。
癒しよりもはるかに別格なのです。
救いとは自己を明らかにする事。
華道、茶道、書道、武道…、みな仏道に通じます。
己の道なのです。
己の道の究極は自己を忘じた世界。
「わたくし」のない世界です。
あなたは名誉なことに先生からより高い導きを授かったのに、それを感じ取れなかっただけザマス。
受け止め方一つで道はせっかくのご指導も私道になります。至道はわたくし無きなり。
わたくしなきみちについて先生のもとで学ぶアルよろし。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。耳にいたいお言葉ですが、真実だと思います。
ただそのころ(その後すぐ)ちょうど、精神科で躁鬱病と診断された時期で。。今思えば今より落ち込みや焦りが激しかったです。落ち着いて一歩立ち止まり冷静に考え
るということが欠けていました。
そういったとき、どのようにバランスを取っていけば良かったのか、自分の中でずっとモヤモヤしていて。。周囲に迷惑かけてしまったのがすごく恥ずかしいです。
どうしても、考えてしまいます。。

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